運命の子

わたしの、中国語は二年やっただけとはいえ、それなりに時間をかけているつもりなので、第2外国語で中国語をちゃらちゃらと専攻している大学生よりは、ましなはず!?と根拠なく思っていたところ、遠い親戚にいました大学2年生で中国語専攻している野郎が。
その野郎に新年に会ったところ、今2年生で来年は中国の大学に留学が決まっているというので、新HSK5級を受けるらしいです。新HSK5級に受かるかどうかで本科に入れるかどうかが決まるというので、なんとか試験も受かりたいけど、他の試験もあってサークルもデートもあって、と大学2年生はたいへんらしい。
中国語歴において3か月先輩のわたしとしては、ナンチャッテ中国語で話しかけたところ、抑揚のある中国語で返されてしまいました。「本場の中国語みたい」とは、思っても口にしません。
6月に試験があるので、一緒に受けようと野郎が言うと、外野がわたしの方が「三か月も先輩なのだから受かるに決まっている」という納得できない理屈を言われ、全く関心が無かったのに断れない雰囲気になってしまいました。と、その場では全く関心が無いふりをしたものの、隠れて受けて「ふらっと試験受けたらふらっと合格してたよ。ヘラヘラ〜」みたいなことを言って、今どきの学生の鼻をへし折りたいと思ったものの、こちらのただでさえ低い鼻をへし折られるような気もします。
今どきの政治経済をわたしより詳しく語られ、かなり片手間でやっているらしい中国語ですら、わたしより流暢に話されるとは。。。
いったいわたしは何をやっていたのだろう。2、30年前のロックと映画なら詳しいんだけどねとお節を頬張りながら、恋愛だの恋だのわたしの中では死語となった言葉が出てくる野郎の口元を見ながら思ったのでした。



そういえば、年末にチェン・カイコーの映画、「運命の子」(赵氏孤儿)を見ました。
映画としては、良くも悪くも本当に「ああ、中国娯楽映画だねえ」という感じでした。
どこかに書かれていた、チェン・カイコーの「自分の子を犠牲にできるか」というメッセージも、中国の若い人へ中国文化を伝えたい。という想いも、恐らくこの映画では伝わらないでしょう。
娯楽映画として、面白い面白くないというような文脈でしか語られないような映画でしたが、この中国では有名な京劇である物語と内容を変えてあるというのですが、いったいオリジナルはどういう話なのか、どう終わったのかという点だけが気になりました。
ただ、中国映画の代名詞にもなっている、ワイヤーアクションというのは、逆に映画を安っぽくさせているだけのような気がします。ワイヤーアクションを有名にさせたのは、アン・リー監督とも言われているのですが、荒唐無稽さが前提の映画ならば、爽快感という免罪符もあるのかもしれませんが、リアルな文芸物?を作りたいのであれば、人間の本物の動きだけで作って欲しかったです。
でも、今の张艺谋にしても陈凯歌にしても、映画というビジネスを成立しなければいけないのだろうなあ、とそんなことを考えたりした年末でした。



と、どう読んでもあまり映画を褒めていないみたいですが、決して悪くは無い映画です。
で、この予告編を見ると、なんだか懐かしくなってきました。
テレビで放送したら、もう一度見てみたい。あるいは中国語字幕で見てみたい気がします。



また、スペースが余ったので、作文を載せます。


去年的年底,我读了几本中国小说,看了几部中国电影。
从书和电影中我感到,中国历史上有过好几次重大的变革,每一次都好像彻底改变了中国人的价值观念。
举几个例子,古代有很多次大规模的战,其中好几次使中国发生了重大的变化。
现代经济改革也使中国大众发生了从未有过(前所未有)的巨变。
除此之外,电影导演陈凯歌写的 “文化大革命还没完成。
中国大众一直在朝着某个方向奔腾向前。文化大革命的确是愚蠢的运动,文革的时候前往政治,而现代是前往经济”。
这个句子也给我留下了深刻的印象。
现代的年轻人也认为,西方文明的进入使他们和传统的中国有了“断裂”。
拿食来说,快餐厅成了他们的最爱。
再拿住来说,大家庭变小了。
总之,建立在传统社会秩序上的中国,其基础的部分正在发生很大的改变。
其中的一个原因是网络的普及而引起的年轻人意识的变化。
我感觉,世界人民的价值观念被因特网的发展所统一化了。
于是不适应新环境的事就会被淘汰。
已经决不把所谓“国民气质”只憋在国内了。
现代的中国是否有重视礼貌的国民气质?
现代的日本是否有舍己为公地打仗的国民气质?
毕竟早就把那气质捆扎起来而埋入地下了。
一起说那些关于“国民气质”的中国朋友送给我他的近照。
那照片竟然好像功夫片的明星。
他说“现代中国毕竟是从古代中国延续下来的”。


前にも何度も書いたように、生まれて初めて書いた中国語の作文を、跡形もなく直されたのに、面白いとか格好いいと煽てられたのが、今でも中国語を続けられている理由のひとつただと思います。
そのおだててくれた中国人の老師は、少し前のメル友から今はskype友達となりました。前は熱心にわたしが書く作文についてコメントをしてくれたのですが、次第に現代中国社会の拝金主義批判を聞く会のようになってきました。
上の作文も少ししか赤が入っていないのは、老師の気力が無くなっただけかもしれません。
ただ、外国人の文章だとわかるけど、それでいいんじゃなあい。とか「把那些气质捆扎起来而埋入地下了」は、格好いいと言われたのですが、それは昔、あなたに教わった中国語ですよと口には出せませんでした。中国語を初めて数か月なのに、なぜか補語の「起来」の使い方ばかりを教わりました。また、今でもなぜか老師がよく直す「而」の使い方を意識して真似しているような気がします。
その時の話をして、「也许是老师在银行里把不少钱存起来」と言うと、そういう言い方はしないと言われました。と曖昧な記憶なのですが、存起来は、「集めて貯める」というニュアンスなので、銀行という言葉を使うのなら、「到银行存钱」とかなんだとか。。。で、また起来を使った言い方で、「〜に」とか「〜へ」という表現を入れると、把○○V起来は、使えなくなるとかなんとか。。なんだか一年前とあまり進歩がないねえと、結局いつもの、「とにかくいい中国語をたくさん読め」で終わった中国語3割日本語7割の聊天儿でした。

「無言歌」のことを思い出してみる

・映画の内容について完全に触れています。



まったく中国語とは縁の無い知り合いと、映画「無言歌」を見に行きました。わたしは勝手に文化大革命の頃の映画と思っていたのですが、実際は文化大革命前に毛沢東が採った「反右派闘争」という出来事であることをその知り合いから教わりました。
映画の冒頭に「毛沢東は人々に自由に政府を批判させ、その批判させた人たちを捉えた。彼らは政府に騙されたのか?」というような日本語字幕が入りますが、もしかしたら、この字幕は日本公開用のオリジナルなのかもしれません。
もしこの情報が無く、さらに中国の歴史知識が全くない人が見れば、殆ど政治メッセージを感じられないかもしれません。そして、それこそワン・ビンの狙いなのかもしれません。
欧米でのインタビューでは、「わたしは政治に全く興味が無い」と言っている発言も決して、嘯いているわけではないのねと思える映画になっています。
映画を見る前の想像と大きく違ったのは、観客にとても優しい映画になっていることです。常に穴の中や、砂漠、夜という視界の悪い映画はどうなのかしらという危惧は全く必要なく、巧妙なテクニックによって、常に映画には一定の光量が与えられています。
また、全員の普通語も奇麗で、特に女優さんの発音は、北京大学が作成している教材のナレータなのではないかと思われるほどのきれいな発音に驚きます。
と、そんな瑣末に見える舞台環境の事が、この映画の観客への姿勢の全てでもあると思います。


全く農地には見えない砂漠を開墾する労働と、少ない食料、どんどん死んでいく仲間たちという環境になっても、声高に運命を嘆く者も、何かを訴える者もいません。そもそも、この映画には本当の「悪者」は登場しません。この施設の所長ですら、かなり意図的に囚人達のことを考えている、温厚な性格という役割を与えられています。

このワン・ビンの映画「無言歌」を、文学のソルジェニーツィン収容所群島』と対等に評している映画批評も読んだのですが、それはあまりに全く異質な物の比較だと思います。ソルジェニーツィンが描く先には、明確な戦う相手が存在するのですが、この映画は、また巧妙にそれが隠されています。
わたしには、万里の長城を作るために、労働として連れて行かれた男達の物語を想像してしまいました。そして、万里の長城の作成で連れて行かれた夫を探して、泣き声で万里の長城を壊してしまう女性の昔話と、とても似た話までこの映画には挿入されます。
そして、ここに収容されていた今まで仲間の介護をしていた者が、所長から自分の部下になってくれと依頼されて、おそらくそれを受け入れるという、静かで品があり、とても映画文法に則った正統的な終わり方をします。


わたしは、決して悪い意味でなく、ワン・ビンはこれからハリウッドやアメリカ資本の劇映画を撮ることもありうると思うし、それこそワン・ビンの映画への姿勢でもあると思うのです。またハリウッド映画やアメリカ映画を撮るようになっても、彼には譲れない中国人を描き続けるという、どこの映画会社のマークがつこうが、中国映画を撮り続けてほしいです。


少し前に、内田百輭の小説「件」を勧めた方に、とてもこの小説が面白かったと喜ばれ、相当自分で内田百輭を読んだらしく、特に百輭の「サラサーテの盤」が面白かったと言われました。

サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫)

サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫)

まさしく、その日に聞いたラヂオでは、小川洋子がこの小説「サラサーテの盤」が何故か2011年の一番だとか、「わたしはこの小説が好きな人と友達になりたい」と話していたのが面白かったです。
確かに中国の書店では、村上春樹と並んで小川洋子の小説もたくさん積まれていました。村上春樹小川洋子が中国で受け入れられる要素を考えれば、内田百輭の小説も、とても好まれる要素があるのかもしれません。逆に内田百輭の小説のいくつかを中国現代文学の翻訳だと言われれば、全く疑問に感じないような気もしてきました。
そうだ。これから中国の小説好きな人に日本の小説を進めるときは、まず内田百輭を薦めることにしよう。


年末年始は、中国語三昧の生活が出来るかと思ったのですが、いろいろと用事が出来てしまい、なかなかそうもいかなくなってしまいました。それでも、なんとなく補語強化冬休みとしたいです。

無言歌

いつのまにか年をとってしまうと、身近には、様々な健康に問題がある話を聞くことが多くなります。命の質は同じなはずなのですが、そんな話を身近な人から聞くほど、一日の貴重さを実感させられます。
いろいろと時間が無くなっていた時に、中国の方に声をかけられて手作り餃子をご馳走になって、小説などなどの話をしては、また作文を見てもらいました。


わたしにとって今年の小説の一番の発見は、ショーン・タンが全てだったのですが、

The Arrival

The Arrival

遠い町から来た話

遠い町から来た話

また作品を全て読んでいると思っていた、カズオ・イシグロに短編集があることを知って、

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

ようやく最近読み終わるや、マイ大切な短編作家の10人に入れることに決定しました。
中国にも紹介されているらしい、石黒一雄は普通に日本人だと思われているらしいです。
勿論、どうして日本人でないのかを説明できません。もしかしたら、本人にもそれは説明できないのかもしれません。
中国の歴史の話になると、何も知らないも同然のわたしに、古代中国から現代までの歴史を一気に独特な解釈で教わりました。また、旧約聖書で説明されていた中国の話から、しつこく文革のことも聞きました。わたしにとって、文化大革命に関することで、一番理解できず、それでいて今とても興味があるのは、多くの中国の方にとって「文革は間違いだった」と断言する一方で、毛沢東を高く評価していることです。わたしが直接中国の方から聞く、文化大革命のニュアンスはどうも、wikiに書かれているような説明とは違うようです。
そして、文革をとりあげている、映画「無言歌」と陈凯歌 の「少年凯歌」を紹介しました。


わたしは、ワン・ビンのことは、今年の秋の全作品特集で知ったばかりなのですが、劇映画監督というより、やはりドキュメント作家という作風であった彼の新作が、普通に劇場公開されること自体がニュースかもしれません。
わたしが以前どこかで読んだ記憶のある、この映画の挑発的な宣伝コピーは、「毛沢東は政府へ反対意見を求めた。そして意見を言った者たちを全員投獄した」というような文句だった記憶があるのですが、今はあまり見かけません。



わたしが、文革に興味を持ってしまうのは、ここらへんにもあります。
朝日新聞では、何人かの人が今年の映画ベスト1にあげていましたが、決してドラマとして感動をよびかける映画ではないはず。


また、陈凯歌の「少年凯歌」は、もといさんといっしょに和訳をしようと話をしていたのですが、あまりにわからない名詞が多すぎで、こっそり翻訳本を手に入れてしまいました。この翻訳本の帯にある、また挑発的なコピー「文革はまだ終わっていない」と、それを説明している文章で、さらに文革と中国の歴史への興味が深まり、今月ようやく日本で公開される「運命の子」こと「赵氏孤儿」は、すでに中国で公開されていて、やはり张艺谋のように、若い人たちからは、終わった監督のように思われていることや、原作にあたる有名な京劇の話を大幅に変えているらしいということを聞いて、ああ、これも見に行かないとおっ、と思ったのでした。



わたしの今年残されたイベントは、映画の「無言歌」と「運命の子」を見ることと、「少年凯歌」を翻訳本の力を借りてでも読み切ることです。


またスペースがあまったので、添削していただいた作文を載せます。
作文については、発音と同じように、同じことを何度も何度も指摘されています。
大雑把に整理すると、
−量詞を使えていない
−了を正しく使えていない
−補語を殆ど使えていない
−这个,那个の間違い
などなど。最初の頃は、「まだ出来なくてもいいのでは」くらいに考えていたのですが、そろそろ同じ間違いばかりする自分が情けなくなってきました。
ただ、わたしにとっては、発音と同じなのですが、何度も何度も同じことを言われ続けて、ようやく、自分の間違いの様がわかってくるようです。また間違いがわかってくることと、それを訂正できることに、さらに時間差があるのも悲しいことのひとつです。
作文については、去年最初に見ていただいた中国語作文が、一番面白かったと言い続けられ、そんなビギナーズ作文ラックを越えるためにも、もう少し「奇妙な面白」に磨きをかけたいものです。
ちなみに、今回も中国語のテキストの重要語句と文法説明の句を全て使って作ったのですが、そんなルールを内緒にすると、語句の使い方の不自然さは指摘されなかったことだけが、わずかな救いです。
今回の指摘ポイントで「ほおお」と思った箇所。
中国的朋友とは言わない。違う意味になる。
发现了一条消息说,《大方》在发行两期之后被停刊了。の「说」の使い方。
ちなみに、これは雑誌の「大方」が中国当局(って何?)によって発禁処分となったニュースを知って、「大方」という言葉について書いた文章です。
文芸雑誌が政府(?)によって、発売中止となるのは、大きなニュースのような気がしたのですが、どうも一般的な小説を読まれる人たちにとっては、今回の事件は、そういう捉え方ではないようです。


《他们很大方》


听说在中国的传统里,“大方”是评价人的重要标准之一。
即使有的人很有能力,可是小气的话,可能没有朋友,而大方的人,则会有很多朋友。
在日本没有请客的习惯。
我的朋友随着在中国待的时间的,跟中国朋友吃着吃着不知不觉地请客了。
似乎和中国人一样越来越在乎“面子”了 。
他自己也说“我大方起来了”
今年我读楊絳的小说《林奶奶》,我知道的“大方”的意思是“気前がいい”。
这个日语是“毫不吝啬”的意思。
不料根据翻译本,在这篇小说里不是“不吝啬”的意思,而是像“稳重”似的意思。
我记住了“大方”和“大大方方”的用法。
这夏季这个夏天我去上海的时候,在书店看到了一本大号的杂志。
那本杂志是安妮宝贝编辑的,名字叫《大方》。
我哗啦哗啦地翻看本杂志,不料大致的内容是有关村上春树的采访。
我喜欢得不得了。
我从来没看过这么多关于他的采访,连日本杂志都没有这么详细的采访。
我毫不犹豫地去收银台买了那本杂志。
对我来说,虽然那本杂志的中文很难,但是看有兴趣的文章是我的乐趣之一。
那本杂志的名字《大方》的意思是“风格清雅”吗?

但是昨天我在网上发现《大方》在发行两期之后,被停刊的消息(→发现了一条消息说,《大方》在发行两期之后被停刊了)。
我在网上怎么查也不清楚被停刊的理由。
被停刊的原因究竟在哪里呢?
我没看《大方》的第二号的内容。
是因为艺术风格那么低吗?
依我看,现在中国经济的迅速发展把中国人推到两个极端。
听说在中国的传统里,“大方”是评价人的重要标准之一。
本杂志的《大方》是什么意思?
编《大方》的人是不是大方
使《大方》停刊的人是不大方吗?
我怎么也不知道大方的意思。

レッスンという名の舞台

今は週に一回、skypeで発音を見ていただくレッスンをお願いしています。
中国語関係について、読んだり聞いたり見たりといろいろなことをやっているかのようなことを書いていますが、常に自分にとって一番の中心なのは、レッスンの準備と復習と、そのレッスンです。
発音レッスンの準備と復習は何かというと、自分が音読をしたり、お手本を聞いては、そのお手本を真似して発音したりすることが中心でした。
さらに課題の中国語を咀嚼するように読むことと、レッスンを録音して、それを聞き返すことも効果があります。
「効果があります」などと自分で書くと、「おいおい」と、老師からツッこまれているような気もして少し恐いのですが、当社比では135%くらいの効果を感じられます。。。たぶん。


先月から、ひたすら「匆匆」の音読をしているのですが、そもそもわたしには難しい用語がある上に、ぴんと来ない描写がいくつかあったのですが、およそ一か月読み続けると、ようやく文章の意味がわかるようになってきた気がします。
音読をする前に自分で翻訳をしたのですが、ここでは辞書をひきひき訳していたに過ぎず、ただ中国語という言語を日本語という語彙に置き換えてみましたァの水準でした。
同じ文章を何度も何度も音読をして、発音をみていただいていると、それなりに、間違いも直ったり直らなかったりを繰り返しながら、少しずつ発音が修正されているようなのですが、またその発音以外にも、文章の理解度が深まります。
発音を意識しながら、読むことに精いっぱい状態は続いているのですが、ようやくこのテキストの音と意味が繋がってきた段階です。
そして、一か月前にこの文章を読み始めた頃は、作者である朱自清が、自分の一生の短さを嘆いているような印象だけでした。それが、読み始めて一か月たった今は、自分の目の前から「逃げていく」ものを捉えるようとして、決して捉えられない様々な描写に目がいきます。この文章の全てが、この自分から逃げ去るものへの描写とも言えます。
ただ、決して言語の置き換えだけでは、伝わらないことだとも思いますし、また決して文学性などという問題ではなく、この伝わらなさが言語の違いなのではないかと思います。と同時に、それでも拙い翻訳であっても、基の文章自体に含まれている物たちの純度が高ければ高いほど、それなりの翻訳でも何かしら作者が記そうとした小さな断片たちが、心に届くこともあるのだと思います。


最初の頃のわたしの音読は、もちろん和訳をして意味を捉えていたつもりのはずなのに、老師の聞くところで読んでいると、だとだとしく四声つきのピンインという言語を読み通しているだけだったのが、わたし固有であるらしい過ちを何度も何度も修正を繰り返して、間違いではない音に近づくにつれて、ようやく自分の口から出てくる音に意味がついてきたような気がします。
そのSkypeでのレッスンという決められた時間をすごすためには、相当な準備を繰り返しているのですが、自分で黙々と繰り返していると、はたしてこの音が正しいのか、わからなくなってきます。
そこでレッスンの録音音声を何度も聞いているのですが、ひとつには、まさしくレッスンを何度も繰り返すという、奇妙な面白さがあります。老師がダメを出されて、指摘された箇所を発音している自分の声と一緒にまた、わたしも音を出します。そこでまた、その音に対して指摘された説明が、まさしく今、自分の出した音へのコメントにもなっています。また何度も繰り返しているうちに、自分で口や舌の動かし方について、気づいたことを話している自分の言い分についても、頷いたり、それは違うだろうと思ったり。。を何度も何度も繰り返して、ようやく、わたしにとっての試験会場でもあり、観客が一人だけの舞台のような場所で本番を迎えることになります。


それだけ練習をしても、わたしの発音の進歩は蝸牛のような速度で、いまいち冴えない場所から、ゆっくりとどこかへ動いているだけのような気もするのですが、発音の練習とレッスンで得られるものは、決して口や舌の動きだけでな無いと思います。
それには、老師が選んでいただいた課題文の内容による要素も大きいとは思うのですが、何度も朗読を繰り返すことで自然と覚えてしまう言葉たちは、ビジネス用語ではないし、日常口語でもなく、すぐ使える言葉とは違うのですが、何度も何度も音に出すにつれて、とても純度が高い鉱石が現れてくるような感覚が味わえます。
わたしにとって中国語の発音練習は、永遠にたどり着けない天竺のような場所を目指しているような感覚になることもあるのですが、それでも、決して点数や時間では測りたくもない場所への道程だと思います。


わたしは、今まで決して多くは無い老師たちから、中国語を教わって来たのですが、その最初から、今の老師まで、ずっとひとつの流れに繋がっていて、同じような「何か」を教わり続けている気がします。
その「何か」は、決して中国語という言語のことではないのですが、その「何か」のために、これからも、できるだけ長く中国語とはつきあいたいと考えています。そして、近くに中国語を話す人がいなくても、自分で中国語という音を出してこそ、中国語とはつきあえるのではないかと考えるようになりました。


では、スペースが余ったので、Adele の Chasing Pavements を聴きながら繁体字を。


红歌と文化大革命と陈凯歌

週末には気楽に中国の方たちが再創造している「紅軍」の動画を紹介したのですが、なぜ、こんなに、紅歌の曲が使われているのかを不思議に感じました。
xiaoqさんの説明を無断で引用してしまうと、
聪明的xiaoq女士解释了
>「紅歌」というのは中国の革命賛歌。(最近「紅歌を歌って健康になろう」みたいな運動が某地方であったの)健康のために蒙蒙将軍が歌います。 


たしかに、見事に蒙蒙将軍は歌っていますよ。。。しかし、やはりどうして「紅歌を歌って健康になろう運動が某地方で起きたのかしらん?と、あまりいろいろな人に聞くのも恥ずかしいので、自分の小さな手でうろうろ調べてみると、やはりここでも、文化大革命という、中国語のテキストや映画や小説に頻繁に出てくるくせに、いまいち中身がわかっていない言葉にあたってしまいます。


わたしが適当にネットをうろうろして、勝手に推測をしてみた「紅歌」を唄う運動が一部で推進され、おそらくその推進運動以上にパロディとされている理由とは。

  • 特に重慶で、この紅歌運動が広まった。
  • 薄熙来重慶市委書記。文化大革命時期に、紅衛兵組織「連動」のメンバーであったことが有名。
  • 中国国内でも、この運動について様々な意見があり、そのいくつかは、「文革回帰」という声もある。
  • 90周年式典での胡錦濤演説の「文化大革命は意義が無かった」風の演説が、間接的にこの運動を戒めるものであるとかなんとか。。
  • ということを少しだけ含みおいての、やはり多すぎるくらいの「紅歌」や「紅軍」の自作動画を作る若者。


と、別に政治的なことを書きたいのではなく、やはり文化大革命のことを知らないと、とりあえず、今の中国のことがわからないなあと感じていました。
また、わたしから内田百輭の「件」を紹介した中国の方に、今度はいま生きている作家でおすすめの中国語小説を尋ねると、小説ではないけどということで、陳凱歌の“少年凱歌”という文章を薦められました。
この文章を読めば、文化大革命について歴史的説明ではない、「史的」実感が得られるという説明でした。
もしかしたら、「してき」というのは「詩的」だったのかも?というくらい、冒頭のわずか四,五行の一段落が、痺れるくらい美しい文章でした。
こんな感じです。やはり、你の使い方もポイントです。


一九六五年,我十三岁了。我开始在人前饶舌,又在饶舌者面前假装沉默。人到十三岁,自以为对这个世界已相当重要,而世界才刚刚准备原谅你的幼稚——原谅在过去,不是这个理由。因为你确实已经十三岁了。十三岁时发生的事情永远也忘不了。
特别留下印象的事,有两件。一件在夏天,另一件也在夏天。


まだ、一度も中国の原書を読んだことがないというか、全く読める水準ではないわたしなのですが、何事も、最初のひとつを何にするのかは、その道のゆくゆく先に影響を与えるほど重要なはず。という根拠の無いロマンチシズムを混ぜて考えたうえで無理をし、この「少年凱歌」を読めるところまで読んでみることにしました。そして、またまた例によって、ひとりだと挫けそうなので、もといさんにもつきあっていただき、とりあえず12月中に第一章だけでも、きちんと和訳をしてみようと思った次第です。
(と書いてみました)
ちなみに、この12月に、チェン・カイコーの映画「運命の子」≪趙氏孤兒≫も、公開されますね。
でも英語のタイトルだけ、「Sacrifice」というちょっと趣が違うことになっているのもとても興味を惹かれています。タルコフスキーの遺作と同じタイトルになっているところに。

搞笑漫画日和和三国演义

前回の記事であまりに熱心な中国語学習者の関心が高かったようなので、さらに一部の方に向けての中国語新教材の紹介です。


今回は、いきなり日本語無しで、普通の中国語版を見てみましょう。



最初は字幕を見て、シャドウイングなどをして、次第に字幕を見ずに、中国語の台詞を流暢に言えるようにしましょう。上手にできたひとは、ネットに。。


そうすれば、こちらの字幕があまりきれいではない動画も問題がないはずです。
わたしは特にエンディングがお気に入りです。



また、さらに、同じ方向性で少し違う動画もありますね。



もうしつこいとヨというのも承知の上で、この男性がわたしには、中井貴一にしか見えないというだけで。。




さらにさらに、学習に役立つ中国語動画を検索していると、最近はこの動画ばかりですね。最近になって、何故この曲と映像を使うことが、これだけ広がっているのでしょう。



そして、これらを中国や世界中の年轻人らは、いろいろなパターンを作っていて、間違いなく100を超えるバージョンがあります。
もう、どれが一番中国語に効果的なのかはわかりません。
あとは、みなさんも各自で探して、深い中国音楽と文学の世界に触れてください。





最後にこんな感動的な作品を見ると、知らないところで世界各地に中国ブームが来ていると納得せざるをえません。


平田的世界

本当は中国語を聴きとれているのではないのに、中国語が聞き取れたように錯覚してしまうことはありませんか?
典型的な例としては、何度も同じテキストを聴いていると、話しの流れを記憶してしまい、中国語を聴きつつ、頭の中では労せずして意味を理解してしまっているので、「やった」感を味わってしまうかもしれませんが、それは中国語を聴きとれているわけではないのです。


という恐ろしい病にわたしが気づいたのはギャグ漫画日和の、いろいろな中国語版がネットに出回ると、その見事な翻訳ぶりに驚きながら、何度も同じ動画を見ていると、完全に内容を覚えてしまいました。
また、親切な日本人学習者が、また逆輸入?でその中国版ギャグ日和を日本語してくれていたので、時間が短いので、一度みただけで内容が覚えられ、ああ、こういう中国語は簡単に覚えられると思ってしまったのですが、それは大きな間違いでした。
今になって、見てみると、また中国語の内容についていきません。


では、みなさんも実験してみてください。
きっと、二週間以内に削除されてしまう、このようつべ動画で、完全に日本語を暗記しましょう。



次に、その比較的内容が近い中国語版はこちら!



ほら、もうあなたは内容を完全に理解できているのは、中国語を聴きとっているのか、前に見た日本語が強烈に脳内にあるためなのか、わからなくなってきていることでしょう。
しかし、この中国語は上級クラスではないでしょうか?ちょっとしたヒントは下に。



と、なぜ、こんなことを急に思い出したかと言うと、聴く中国語の12月号の65頁に
「我勒个去」の使い方が載っていました。
中国語検定3級以上のみなさんなら、「んな、バカなあ」という意味であることを、ごぞんじですね。
“湿父”が 师傅 というのは、まだ可愛いですが。
他にも、勒个や嘞个の様々な使い方として


“我勒个擦” ありえねえ 我擦
“加勒个油” がんばれえ 加油
“不勒个是吧” 違うだろお 不是吧

として使われているのも試験を受ける人は覚えなければいけませんね。
で、HSKや中国語検定によく出る文として次の基本会話文が紹介されていました。
よく出来ていますね。面白くはないけど。我嘞个囧。


A:听说过睡觉减肥吗?
B:我勒个去!还有这么好的事?
A:只要睡前贴上这个,贴到哪儿就减哪儿。
B:我勒个去!太不可思议了。


さらに、平田的世界のいろいろな中国語バージョン。
そしてどれも、北京大学のテキストに登場するような、美しい中国ですね。
これは、ちょっと中身が危ないです。



これも、見事な。。



youkuなどで、「搞笑漫画日和」で、検索をすれば、さまざまな中国語の「ギャグ日和」を見ることができます。
あれ。もはや、内容はただ単に中国語オタクの紹介にすぎなくなってきていますね。
ついでに、中国の深いオタクたちの二次文学を。

http://www.jjwxc.net/onebook.php?novelid=646111&chapterid=1