こころをおく場所


友人から昨日、「司法試験に落ちてトイレの紙で涙をふいた」というメールを携帯に貰いました。そもそも、携帯メールを一日に一回しか見ず、携帯からメールを打つのが苦手なので、「そのうち機会があれば、どこかでご飯を」という我ながらあっさりした返事しか打てませんでした。
ただ、わたしが中国語の学習をしはじめた軽いきっかけに、この友人の、すでに若くもなく、ごく普通の会社員が仕事をしながら大学院へ行って、司法試験を受けるための勉強を始めた。ということも、今となって思うに少しは影響されているのかもしれません。


一年に数度しか合わないのですが、それまでは「ロックと小説と映画と演劇」とこの分野の話題しか話すことがなかったのですが、次第に友人からは、いかに時間を作り出すか。時間さえあれば勉強をしている。60歳以上でも司法試験に受かっている人がいる。などなどという話を聞かされるようになりました。


新聞紙上では、合格率が低いという論調で書かれていましたが、わたしの想像を遙かに超えた合格率の高さでした。いい歳をして勉強をしている彼の感覚では、時間さえあれば必ず受かると言っていたところで、仕事中に泣くほど口惜しかったというのは、よほど自信があったのかもしれません。
もとより、泣いたことも、悔し涙も、物心がついてから流した思い出がないわたしにとって、彼の短いメールを見てはじめて、彼の司法試験への、あるいは合格をしたあとの自分の身や心の置き場所について、彼がどれだけ切実であったのかがようやく分かり、また同時に羨ましくも感じました。


ことわたし自信についても考えるに、中国語を学習するきっかけも目的もささいなものであったのですが、いつのまにか自分にとっても、この中国語に触れること、中国語の好学をしていくことに、多くの時間を割くことになりました。
中国語を理解できるようになって、こうしていきたいということを次第にわたしも想像するようになってきました。
しかし、またそれはそれで少し別の話です。。。
ただここには、毎日毎日の単調な時間から、中国語に関わる時間を引き出して、中国語にどう接していたのかを強く記録していきます。