中国語の授業について

教室的な中国語学校は本当に短い期間、発音を学んだだけで、なかなか決まった時間に学校へ行くのが難しくなったため、今は近所の中国語を教えていただける方とマンツーマンで教わっています。
たまたま、家に「中国語を教えます」というようなチラシが目に入って見つけたのですが、運がよかったのか、その老師との授業は面白いです。
マンツーマンなので、発音をとことん直してもらえるし、また、中国語での片言会話にも付き合っていただけ、授業の内容も好きにアレンジできます。
という授業についての良いところもあるのですが、マンツーマンのレッスンのいいところは、その老師と個人とのつきあいができることかもしれません。
特にわたしの場合は老師の自宅での授業ですので、家族のことや、食事のことや、将来のことなど、プライベートなことも、語りあえるのが、とても楽しいです。
老師は、日本に来て7年ほどなのですが、やはり日本語に堪能なのですが、気になるのが、「辞書が間違えている」と、よく言うことです。
それは決して、日本語能力が劣っていることでの勘違いではなく、実際にわたしが辞書に載っている言葉をそのまま使って翻訳をすると、それは辞書の訳が間違えている。と言われますが、たしかに日本語としてしっくりきていない時に必ず指摘されます。
この、日本語として、いまひとつしっくりこない感をすでに持っている。という日本語感覚が素晴らしいと思ってしまうのです。
そして、老師は、漢語辞書で確認しながら、お互いにその単語にあう日本語を呟きつつ、適している訳語をみつけます。
なんだか蘭学の辞書を作成していく江戸時代の人々みたいな行為ですが、そうやってひとつの単語についてだけの意味を考えていく行為は、なかなか単語が定着することになります。


また、最近始めたネットの老師は、日本語を学習して4,5年ですが、対日のおきかえでは、辞書の通りを原則としてしまうので、直訳に近い解釈しかみとめないところがあります。
ただ、それはそれでも構わないのですが、やはり、日本語として、また文法的にも間違えていないけど、それは何かおかしい。という感覚は、なかなかテキストだけでは、学べないことなのかもしれません。

そういったことをぼおっと考えているところで、音読が中心であったはずの老師から、よく欠点を指摘されるのですが、今度は「もっと作文を書いてみなさい」と言われました。たしかに、作文を意識して学習をしたことがなかったので、ちょっと簡単な作文を気軽に作ったところ、殆ど自分の文章がなくなるくらいに修正をされてしまいました。


赤字を入れてもらったときは、これもマンツーマンのレッスンだから、教えて貰えてよかったなあ。と赤字の多さに喜んだくらいです。
また反面、あの「より日本語らしい表現」を探すことの難しさに感じたときと同じように、「間違えてはいないけど、より適切な中国語」へと近づくのは、かなり至難の業であるような気もしました。

おそらく、文章を読む、ドラマや歌詞を聞きとる、会話をする。のさらにさらに上に、ただしく中国語らしい中国語を書く。というのが位置しているような気さえします。