知らない汉字を読み飛ばすことの罪悪感について

何度も、これからはここに、毎日中国語に触れたことを記録をしようと思うのですが、そんな簡単なことすら続けられません。
実際には、容易成らざる事情もあったのですが、持ち歩いている漢詩の本だけは一日一句を読みました。


あとは、多少は知っていた人が、わたしと同じように中国語にふれ始めて約一年と時間で、すっかりネイティブと会話をできるようになっていることにも、少し驚きました。
彼の説明によると、仕事と食事関係の会話に限る。ということでしたが、それでも自分の気持ちを入れた中国語を使えるところまで到達できたのは、それこそ容易成らざることです。

わたしの目標は会話ではないとはいえ、まだまだ中国語の読み書きの水準は低いというのも憚れるくらいの水準です。


中国語をとりあえず、たくさん読もうとするとき、第1の困難は、知らない漢字に出会った時の対応です。これが、英語であれば、ある程度スペルのまま読めてしまいますが(考え方がまちがっているかも?)知らない漢字であると、もう読むことができません。さらに最近は、日本語にある漢字や、とても基本的な漢字でもその四声が気になってしまいます。そして、気になるなあ、と心の中で思うだけで、飛ばして読んでしまいます。
それはそれで、中国語を読んでいる。という満足感こそあれど、それを遙かに上回るあっとうてきな「読めていない」感に襲われます。
意味がわからくても読み進めば何とかなる。というのは、わたしの適当英語の触れ方だったのですが、中国語でこれをしても、この「読み飛ばす」感覚が、あまりいいものではありません。意味がわからなくても、そのうち量を増やせば何とかなるのでは。と考えていたのですが、読み方がわからないまま読むことの不自由感が拭えません。


では、ピンインつきの日本のテキストでいいのかしらん。と思うのですが、これがまた、このピンインに頼ってしまっているからこそ、ピンインなしの文章がいつまでたっても、四声が覚えられないのかもね!と自分に駄目をだしたりします。
そういうわけで、いつまでたっても、四声すらマスターできないわたしですが、このままでは、いつまでも「いやあ四声が難しくて、哈哈」とごまかし続けていることになってしまうので、なんかもうこの冬は集中的に四声をマスターします。


ただ、そのためにどうしたらいいのか、はっきりした解決策をもっていないのは、言うまでもありません。