他的行动,引起了心声的共鸣

久々に「テレビで中国語」を見ました。テキストは持っていないのですが、いつのまにか聴き取れない単語が多くて、驚きました。
あの観光の案内のコーナーは、不自然なくらいゆっくり話してくれるのですが、聴き取れない単語が多いです。
また、什么と怎么の使い分けすら、おおそうなのですか。と頷かされました。
そして、前から気になっていた山本太郎さんの発音も、普通は録り直しなのでは。というくらい本番でも四声のダメだしをされていましたが、あの体を使って四声を捉えようとする姿勢には、勝手に親近感を覚えました。
おそらく山本さんも、音程感がかなり無い部類の方なのでは。この四声の才能の無さというのは、中国語をしばらくして初めて第三者によって気づかされるのですが、直す方法は自分の努力と第三者の判定の繰り返ししかないので、四声が出来ない人にしかわからない苦しみです。


今週、中国語学校の見学をする機会があって、そこで通われている方達の発音を聞かせていただいた限りでは、自由会話になると、みなさん殆ど四声がいい加減!あるいは四声がないような中国語に、これまた勝手に安心。それでもその曖昧四声でも、話しの流れで意味がわかってしまうし、先生もそういう曖昧四声に慣れてしまっているので、指摘をされないのかもしれません。あるいは、四声の間違いを気にして話すことに抵抗を覚えさせるより、どんどん自分の言葉をださせる方が大切。という考えもあるのかもしれません。
実は今個人で習っている中国語も、経済的な理由から学校でいいのでは、とも考えているのですが、独習ではない唯一の利点であるはずの、自分の間違いを気づかせてもらう。という点が、学校では機会が少なくなってしまうのかもしれません。
今年はどう中国語に取り組もうかしら。と、一年をたってから、ようやくいろいろ悩むようになりました。
今はもちろん、読めない、話せない、聴こえない。の無い無い尽くしなわたしですが、中国語をもっと早く強くしたい。と体育系的な想いが強いです。


今朝のテレビでは、孤独死をされた方の冷蔵庫に「今日も生きてやるぞと米を研ぐ」というメモ書きがあった。と言われてその冷蔵庫に貼られたメモが写っていました。
わたしにとっては、何か大きなことを気づかされた小さな文字でした。

今天早上的电视报道,因孤独死而去世的人的冰箱上贴着写了“今天也要活着啊! 淘米”的备忘条。
这张贴在冰箱上的纸条也在电视上播放了出来。
对我来说,这就是像发现了什么大事一样的小小的文字。