只管朗读

久々に「家有儿女」を見てみたら、ドラマが聴き取れないという以前に、テキストを見ても忘れている単語や語法が多いことに焦ってしまいました。
どうも最近は、中国語に集中ができないなと、うじうじ考えていたのですが、単純に音読をする時間が減っていることに気づきました。
昨年の夏に「汉语口语速成」を数百回と音読を繰り返して、その勢いで「家有儿女」のテキストまでをも音読をしていた、あの頃の自分が今は信じられません。


去年の今頃は、よく英語や外国語の学習方法についての本を読んでいました。
國弘正雄氏の「英語の学びかた」も、その頃に読んでいた本です。この音読主体についての英語学習方法は、多くの英語学習法にも反映されていますが、この方法を具体的に中国語に落とし込んでいると感じたのが、サイト「中国語会話 グズでノロマな独習体験記」でした。
國弘正雄さん達がいう中学英語の音読というのが、中国語でも、中学中国語というようなテキストがあればよかったのですが、およそ、このサイトなどでも紹介されているラジオ講座や、中国で作成された基礎のテキストだと考え、わたしもひたすら音読をしました。
ただ、次第に自分の記憶力の悪さから、テキスト一冊暗記には、10年かけても無理な気がしてしまい、インプット量の拡散へと意識が向いてしまったかもしれません。


ただ、また偶然にもまた書棚を整理しつつ、拾い読みをしてしまった「英語の学びかた」から、二歩下がる感じで、初級テキストの音読に時間をかけようと思いました。
わたしにとって、音読を何百回もすることは、その音読の結果、どういう効果をもたらすかとかいう問題ではないのだと思います。
ひたすら音読を繰り返すということは、決して語学の学習方法ではなく、自分のささやかな人生の過ごす姿勢のようなものである気がしてきました。