中国語のレッスン

わたしは学校に行くことや人から習うことが、あまり好きではないので、ふと冷静になると、どうして中国のレッスンを受けているのかしら。と違和感を覚えることがあります。
そして、このレッスン料一年分で、中国に2週間くらい行った方がいいのやも?
などと考えてしまい、先週のレッスンでは、本当に今月いっぱいでレッスンを中断しますと言おう。と、先生の家の扉を開ける時までは、考えていました。
いや、コートを脱いでいるときも、絶対言わなくちゃ。と考えていたのですが、インフルエンザのことを夢中で話している内に、ちょっと言うタイミングを逃してしまい。レッスンのあとに、言おうかしら。。と弱気に。
それからいつものレッスンで、音読をしました。こちらは、かなり真剣に準備をしたのですが、やはり何カ所も四声の間違いを指摘されます。
それから、練習問題の造句で、「驚いて怒りを覚えた」みたいなことを作らされたときに、何故か小学校の運動会のことを思い出しました。
造句は、いつも何も準備をしないで即興で、だらだらと話すのですが、この時も小学校で運動会があった。でも母は交通事故で動けなかった。父は仕事でいなかった。弁当は父が作ってくれた。でも、その弁当が盗まれた。みたいなことを少し話しては、老師に直してもらいながら、進みます。そこで、父の作った弁当が盗まれた。という事実の表現を言わせたあとに、老師が、わたしの気持ちを聞いてきたので、“难受”みたいな言葉を使いました。それを直されたのかどうか記憶にないのですが、またどうしてこんな昔の出来事を思い出したのか、全くわからないのですが、あの時の小学校5年生の自分の気持ちが蘇ってきました。それから、その担任の先生と蕎麦屋に行ったとか、カツ丼を奢って貰ったとか、そんなことは、思い出したこともなかったことなので、話したあと、これは本当のことだったのか、よくわからなくなってしまいました。
しかし、この課の練習問題は、全てこの時の事件の描写で進めることになり、また何故か中国語で、一生懸命あの時のことを説明しようとするわたし。老師がまるで精神科の医者のようにも思えてきました。


ということで、今までの練習問題の造句といえば、「猫とわたし」的話題ばかりだったので、一皮むけた?という気もして、今日までレッスンを受けてよかったわあ。と、いう気になってきました。


さらに、レッスンで使いはじめた教科書は「漢語中級口語教程」という教科書なのですが、これが、とても口語のテキストとは思えない。会話の形を借りた説明文。しかも説教くさく(老師談)文法の説明もほとんど無い。という奇妙な教材です。ただ、編集者がこの教材を読ませたいという意思が明確にあるので、ひとつひとつの教材の内容はどれも印象的です。ただ、単語も容赦なく、CDもかなり早いので、最近買った「橋梁」というテキストを知っていますか?と老師に聞いたところ、10年以上前のテキストだけど、と簡単に後ろの棚から取り出して見せて貰いました。表紙が同じで、一課のタイトルが同じなのでおそらく内容も同じはず。老師も、このテキストは量が多くて、最初は今の使っているテキストより簡単だけど、下巻からは、上級テキストになっているとのこと。
こちらのテキストに変えますか?それでもいいですよ?と言われる。と言われると、「いや、とりあえず、一緒に今のテキストを最後までお願いします」と言ってしまうちょっと天の邪鬼わたし。


そもそも、レッスンをやめようと言うはずだったのが、何故か「今の教科書を最後までやりましょう。」と言うなんて。また、少し時間がたつと、やはりレッスンはいらないのかも?そもそもわたしは、日本語ですら会話が好きではないのだし。と思うこともあるのですが、次回のレッスンでは、録音機を持って行こうと誓うわたしなのでした。