中国人にとっての「春晚」

对于中国人的“春晚”

我有两位汉语老师。住在旁边的老师和在网上授课的老师。
周末我跟他们谈有关“春晚”的话题。两个人的共同感想是春晚越来越无聊了。
那个在网上授课的老师是强烈指责的。
大家已经不喜欢周杰伦。那些相声也引不起人们的笑声了。今年的赵本山工作太忙连创作春晚用的小品的时间都没有,等等。
住在旁边的老师告诉我对于很多中国人来说春晚就是为观赏赵本山的节目。不过最近他的小品感觉一般。
总的来说春晚现在只不过是在家人团聚的时候顺便看看的电视节目罢了。
听说,以前春节的时候中国人谁都高高兴兴地谈论春晚的事, 甚至连节目的内容都会影响人们过春节的方式。

不过我觉得,也许是因为最近的春晚还是差不多同样的内容, 但是其他有趣的娱乐是在筯加的。比如说,像在BBS上写关于对春晚的不满这样的事。



自己流で中国語の発音を続けていると変な癖がついてしまうように、こんな適当な中国語ばかり書いていると、変な書き癖がついてしまうかもしれないので、しばらくは自粛。作文は老師にみせる時だけにします。


週末に、前の村上春樹についての作文の添削の説明を老師から聞いていたら、それだけで約一時間かかってしまいました。既に習っている基本的な知識でもっとシンプルに書けるはずと言われました。複雑な表現をするよりも、正しく簡単に書くようにと何度も言われました。ヨウタイホゴとかなんとか。。
既に老師からは何度も添削原稿をもらっていたのですが、またもや今までの修正原稿は不十分な箇所が多かったですとさらに修正原稿を見ながらの説明でした。ここの「はてな」で修正をするのは、えらく面倒なので、もう修正も省略して正しい文章は、わたしの引き出しの中だけに。
ただ、間違いなくオリジナルの原稿を書くよりも数倍の時間をかけて修正してくれた老師の、そのエネルギーは何なのかしら。などと考えてしまいました。
相変わらず、この説明が難しかったのですが、説明を聞く度に、「わたしにはまだそんな風に書けない」と今までは考えていたような気がします。発音にしても、ヒアリングにしても、知らない漢字に出会った時も、「まだできなくても仕方ない」と自然に思ってしまうところがありました。
それが老師の説明を稀里糊涂地聞きながら、「まだできなくても」と何時までも自分を許していては、何時までたっても「まだできない」ままであるような気がしてきました。
もっと自分の出来ない点を、「どうして?」と突き詰めて考えてみようと思いました。いや、考えるだでけではなくて。


また、上の「春晩」の話題や、中国の歌手の話になると、わたしが知っている歌手は「周杰倫」くらいなのですが、北京や上海の中国の人たちからはそろって、「昔はよかったけど。。」と言われます。そういえば、わたしの知っている映画監督や役者についても、そんな冷めた言い方をします。そして、それがわたしとだいたい同じ感覚なところに勝手に共感していまいます。かように人が人を好きになる力とは移ろい易いものなのです。ねえ。