不知不觉互相渗透着

ネットで教えていただいている老師に作文を送り直してもらっています。だらだらと長くなってしまい、やはり日本語的(自分の)構造がわかりづらくもあり、また日本語で誤魔化している曖昧さや論理の無さが、外国語にするとより明らかになってしまうことが、自分でもよくわかりました。が、良くも悪くも自分らしさが出た文章になっているとは思います。
こんな作文にも細かな質問をいただいているので、やりとりをしつつ、修正版は今晩に。



修正前
「不知不觉地混杂在一起」

1.我附近的座位
我是高中生的时候,我的旁边坐在的女孩子是鲍布•狄兰迷。
并且,不久我也成为鲍布•狄兰迷,也和她一起去了音乐会。
我斜前坐在的女孩子说月经痛得厉害,我想总觉得自己也象得了月经一样的痛。
并且斜后面的女孩子因为有妊娠反应,不断呕吐,我也感到总觉得自己也象得了妊娠反应一样,好几次都吐了。
如果在招牌上写我高中时代的特征,就是“容易传染”。


2.我附近的猫
我看我家猫吃完饭之后舔手的姿势,模仿着那只猫的姿势。
同时,模仿在猫吃的姿势,睡的姿势,伸懒腰的时候,猫每次都不高兴。
于是这次猫模仿着我的动作,我吃饭的时候,他也吃在桌子上吃我的东西,去厕所的时候他也跟着,我进浴室的时候他还寸步不离,他做和我一模一样的动作。
同时,不知什么时候他在沙发上像跟我一样地坐,睡的时候也像跟我一样地仰过身子来。
我家的猫说不定想不到自己是猫。


3.我附近的项目
我在IT相关的公司,有很多的项目。
并且,把软件制造转关系企业出去,分公司,系列公司,转包工厂,离岸外包,有很多的公司复杂关系。
由于重要的软件开发移交子公司,联合的公司,中国等亚洲的公司,总公司逐渐不能理解重要的部分。
但是,奇怪的是
这样的项目,由于像反映了那个项目的领导人的性格一样,引起像那个领导人一样的性格,看法,和结果。


4.我附近的社会
这次原子能发电的事件,东京电力的记者招待会或者瑞穗银行的记者招待会上,最初哪边领导阶层的人都没能掌握在现场里发生什么事,这些事受到批判了。
很多日本企业是,大部分的工作复杂有关系国内国外的公司,我觉得这也是原因之一。
我理解总公司转瞬间掌握在现场里发生的事是有点困难了。
只是,至于所谓组织,也像领导影响现场一样地,现场的气氛也影响领导。
听说现在在受灾地的避难所里,不仅有身体患病的,而且有精神病的人也筯加了。
在狭小的场所里心病是会传染的。
但是一方面,有时让心里强的人可以带领别人的方向。
所以自然界的物质也好,形而上学的心和精神也好,如果大家都聚集在一起,逐渐影响互相,不久后,就会不知不觉地混杂在一起的。


在数年前的富士摇滚音乐会,我和高中时代同班同学的女孩子重新相逢了。
她带着大个儿外国人的丈夫和双胞胎的孩子,向我打了招呼。
但是其实我怎么也想不起来,她是那个一起去了鲍布•狄兰的音乐会的女孩子,还是说月经痛得厉害的女孩子,还是因为有妊娠反应,不断呕吐的的女孩子。
也许那个三个女孩子都只是一个女孩子。

看着她手拉手孩子走开的后影,我觉得,也许那个女孩子,或大个儿外国人的丈夫,或双生子的孩子,都是我自己的。


特に4の文章が分かりづらいと思い、4だけの日本語を送りました。しかし、ここだけ読むとさらに分かりづらい文章です。1から4までは繋がっています。


(1から3は面倒なので省略)
4.わたしの近くの社会
原子力発電の事件で、東京電力の方の記者会見や、みずほ銀行の記者会見では、どちらも最初に、トップの人間が現場で何が起こっているのか掴めていないことに批判がありました。
これは日本企業の多くが、殆どの仕事を下請けから、孫請け、さらにその下にいくつもの会社がついている。という複雑な構造になっていることもその原因のひとつだと思います。現場で起きている問題を、親会社が瞬時に把握するのには困難になってしまうのは、良くも悪くも理解できます。
ただ、やはり組織というのは、そのトップが現場に影響を与えるのと同じように、現場の雰囲気がトップに影響を与えていることもあります。
今、被災地の避難所でも、体の病だけでなく、精神的な病にかかる人が増えていると聞きます。この心の病は狭い場所に集まると伝染することがあります。ただ、同じように、心の強い人によって、また違う方向に気持ちが広がることもあります。
結局自然界の物質も、形而上学的な心や気持ちも、近い場所に長くい続けると、すこしずつ影響され合って、混ざり合うこともあります。


高校時代に同級生であった女の子と数年前のフジロックコンサートで再会しました。彼女が背の高い外国人の夫と、双子の子供を連れているところに、声をかけられました。
ただ、わたしは、彼女がボブ・ディランのコンサートに行った女の子だったのか、よく生理痛で苦しんでいた女の子だったか、それとも高校3年で妊娠をした女の子だったのか、思い出せませんでした。
またもしかしたら、それはみんな一人の女の子だったのかもしれませんし、背の高い外国人の夫も、双子の子供もみんなわたし自身のことなのかもしれない。と、子供と手を繋いで歩いて去っていく彼女の後ろ姿をみて思いました。