極端な人たち

連休の前に、仕事関係で、中国に仕事で駐在して2年程度になる方二人と話す機会がありました。
一人は北京で一人は杭州にいた方で、仕事と関係なく無理矢理中国語を話して貰ったのですが、杭州に滞在していた方の中国語は、もの凄く本格的に聞こえました。
それは、ひょっとしたら、とある中国人達にとって、標準的な日本語より、関西弁の方が格好いいと感じるのと似た点もあるのかもしれませんが、単に杭州にいた方の中国語能力が高いだけなのでしょう。
わたしのナンチャッテ中国語の相手も少ししてもらったのですが、彼はすでに完全に自分の言葉として、中国語を使っているのがわかりました。
まだ20代で、大学の時に第2外国語で適当にやっただけで、何も準備はせずに中国へ行き、次第に本格的に中国語を習得することに夢中になっていったとのことでした。


彼の話で印象的だったのは、
特に漢字について、四声の「何声」と意識して覚えようとしていない。だいたい一度聴いて、使っていけば、「なんとなく」覚える。との話でした。
それは、まさしく学習初期の私の理想型でしたが、わたしの現実はそれとはほど遠く、無理にその漢字は「何声」か意識して記憶させないと全くその通りに発音できないという悲しさでした。
また、仕事でも私生活でも意識して中国語に埋もれていったその様は、君は加藤嘉一なのか。というくらいの中国語習得に対しては貪欲な話でした。
仕事でも、まわりにいる日本語が堪能な中国人の方達には、日本語で話しかけさせず、また中国人の家庭教師をつけただけでは足りずに、中国人の恋人を作って暮らすようになったなどなど。


よく、外国語習得に一番いいのはそのネイティブを恋人にすることだとは聞いたことがありましたが、結局はそれも、個人の語学への習得欲の問題なのかもしれません。
その彼の話を聞きながら、去年SKYPEで中国語を教わっていた老師もまた、ありえないくらい日本語が堪能で驚いたのですが、彼女も、日本人の恋人がいるという話をしてくれました。
またSKYPEでのレッスンというのは、カメラでのやりとりになるのですが、しばらくは自宅の部屋からのレッスンだったのですが、それは自宅ではないだろう的な風景が後ろに繰り広げられるようになり、何度も様々な背景の現場からの放送となってしまいました。


また、この若い老師の話と杭州に駐在していた彼の話の共通点は、相手が好きだから、その恋人が使う言語に夢中になったというよりも、その言語を速く習得したいから、ネイティブを恋人にして自分の会話練習をさせている的なところでしょうか。
奇しくも二人が共通して、恋人に試みたことは、わざと怒らす、わざと喧嘩をする、などなど、その「人非人」と呼びたいくらいな彼らのガツガツさを、眩しく感じるわたしでした。
しかし、言語は何故存在するのかを考える時に、彼らの行為は全て理にかなっているのかもしれません。
ただ、また彼らの外国語習得欲求は、その先にビジネスを成功させたいから、この外国語を利用しているという説明もとても明確な話でした。
ただ、自分に顧みるに、生まれてこの方、全く仕事の成功欲がなかった自分を気づかされました。とはいえ、今さらこれでいいのだろうかと首を捻っている時間も残っていない気もするので、これも性分なので仕方がありません。


連休中は意識して中国語以外の小説を読んだり映画を見たりしました。
そこで思い出したのは、わたしはとにかく長い小説や長い映画が好きなのでした。わたしにとっての小説や映画の評価は、およそその長さと比例します。前にはまったRPGにしても、永遠に終わらないくらい長いゲームが好きでした。コンサートや演劇も長ければ長いほど、お得な気がして、四拍五日で行く野外コンサートも長いものが好きなわたしには堪りませんでした。ただ長ければ長いほど、その終わりが来ることが許せないくらい悲しさも感じました。という性分からなのか、わざと最後の1,2頁を残したところで本を読むのを辞めたり、ゲームもエンディングの手前で終わらせたりします。これをわたしは「長距離走者の孤独」症候群。と自分で呼んでほくそ笑んだりしています。
そういう性分のわたしが中国語に惹かれているひとつの理由は、わたしにとって中国語の習得が永遠に終わらない気がするところであるような気がします。
中国語については、永遠に終わらない映画を見始めているような期待と不安をポップコーンと一緒に抱えたまま、暗闇に一人で座っているような。。今はそんな感覚も覚えます。