一ヶ月間毎日、自由会話のレッスンをやってみた

個人レッスンがしばらくお休みになったので、SKYPEで自由会話を一ヶ月間、およそ毎日やってみることにして、もう少しで一ヶ月になります。料金は、一週間に一度の個人レッスンの一か月分と比べても結構お得でした。
今までもSKYPEでのレッスンというのは、経験があるのですが、テキストのレッスンを中心にお願いしていました。まだ自由会話をお願いしても話すネタもないし、何よりも自分の中国語活用水準が自由に会話できるところではないだろうと思っていたのですが、ただただ安さに惹かれて、試しに一ヶ月間、どんなに遅く帰っても、どんなに仕事で挫けた気持ちになっても、PCのマイクに向かい続けてみました。
結果を単純に言うと、一ヶ月間の自由会話というのは、結構効果があると感じました。
そもそも、レッスンの時だけ、自分の知っている単語を並べるというだけでは、たいした変化ももたらさないと思うのですが、できるだけ何を話そうかと考え自分でテーマを作ったり、またもろもろの中国語の疑問であったり、老師の好みにあうような話題を探したりという、地道な努力を重ねた結果、多少は会話らしきやりとりが成立するようになりました。あるいは、会話をすることの苦手感が少なくなっただけなのかもしれませんが。。


何人かの違う老師とのレッスンになるのですが、やはりわたしにはまだ、日本語がある程度は理解していだける老師の方が、こういうことを言いたいのですけどお。みたいな際に助けて貰えることと、日本語がわかる老師の方が、日本の文化に興味を持っている人が多いのです、若干話を進めやすいという点が有りがたかったかもしれません。
また、自由会話もだらだらと、理解できれば会話を続けていくという流れだと、いつまだもぐだぐだな中国語になってしまうので、発音や語順や語法に間違いがある度に修正をしてほしいと伝えてみました。

そういう条件でやっても、発音でダメを出されることは殆どないのですが、それはやはり、発音でいちいち会話をとめていられない。という状況もあるのでしょう。
多くの老師に指摘されるのは、語順関連の間違いと、文法では間違えてない(かもしれない)けど、中国人はそんな言い方をしない。という指摘です。会話らしきものが適当に進むと、こう言いたい。こう言い返したい。→あれ、どういうのだろう。→何がわからないのかが分からない。→日本語で考えてみる。→よけいわからなくなったまま、口に出してみる。
というような発想の流れだったかもしれません。まず常に日本語で考えてから中国語を組み立てるのではなく、わからない点があると、わからないのがどういういう表現なのかを区別するために日本語化してみる。で、日本語がわかる老師にたいしては、こういうことを伝えたくて。。と説明すると、結局は帰ってくる答えは、わたしの知っている単語内での表現だったりします。
また、せっかく思いついて口についた動詞についても、補語をつけるような指摘や、了の使い方の間違いなども良く指摘されました。
これらは、わたしが読んだことがない文法書をもっと読んだりすると、中国文型にはまった表現をしやすくなるのかもしれません。
また、文法としては正しいかもしれないけど、そんな言い方を中国人はしない。という指摘については、なかなか差を埋めるのは難しい気もします。時には辞書の例文に出ている表現を使っても、その表現はおかしい。という指摘がありました。それは作文を書いている時も、よく言われたことでもあったので、ただひたすらネイティブの表現に接する時間を増やすしかないのかもしれません。


と、あまり具体的な対策を書いていませんが、中国語については、ひたすら会話の上達が目的である人にとっては、きちんと毎回主題を決めて、老師にも、正しい指摘を繰り返しもらえれば、一年もこのような練習を続ければ、思っていることを表現する技術は上達するのではないでしょうか。
ちなみに、わたしが自由会話のレッスンで一番使った言葉は、「那个。。。」「对对!」「真的吗?」です。まあ、しょせん、そんなレベルの自由会話でありました。


ただ、わたしはというと、やはり試しで会話を続けてみたものの、若い老師たちのテンションの高さについていけないところもあり、もう暫くひっそりとした中級テキストを中心に戻ってみます。
よく、中国語については語彙限定の読み物が少ないと言われていますが、一番てっとり早いのは中国で作られた中級テキストが、5000語あたりまでで、編集された散文が中心となっていて、大人が読むに値するテキストが多いと思います。
ただ、中国語学習者向けのテキストとして、多くの優れた文章に接することもあるのですが、一方で北京大学の初級者向けの小説や、中国語雑誌「读者」によく出てくる、障害者や恵まれない環境の人たちの話などは、編集者の目線に大きな疑問を感じます。