中国語のレッスンを受ける


●中文和訳
今月から新しい老師に、中国語を見ていただくことになりました。
今まで多くの老師にしていただいたレッスンでは、きちんと日本語にする中文和訳という経験はありませんでしたが、これが本当に難しいです。かなり考えてしまい、同じ量の中国語訳よりも、時間がかかっていると思います。それでも時間がかかって、立派な訳が出来ているのならいいのですが、時間だけかけて、今一つしっくりしない感だけが残ります。不自然な日本語を直せないというもどかしさは、自分の中国語能力だけでない、日本語文章能力について疑問すら感じます。
そのままの漢字では辞書に載っていなかったり、時代の背景を知らなかったり、知っている単語にそういう意味があるとは知らなかったりと、理由は諸々ですが、レッスンではいつ終わるかわからない杨绛の「林おばあさん」の文章を最後までとりあえず訳してみました。
不確かなところが沢山あって、うまく日本語として繋がらない点が多いのですが、これで文章全体の概要はわかり、中国語で言うところの、文章の风格も伝わりました。
一人で読んでいると、ここまでの理解でいいんじゃ?と軽く妥協してしまうところですが、レッスンで間違いを直していただいて、ただ語句を知らなかったではない、何かわたしの和訳に欠けている点を学べればと思います。
とはいえ、今までもせっかくレッスンを受けても、「レッスンを受ける。」「修正をしていただく。」という点までで満足をしてしまい、そこから自分で共通的な問題を拾えていないため、またレッスンで何度も同じような間違いを繰り返しているような気もします。
もうちょっと、融通を利かせられるような復習をしないといけないのでしょう。


●発音
また、和訳をした文章の発音もみていただいています。
「大きな間違いはないけど、まるで翻訳機の合成音声のような不自然さ。」
と言われました。これは、今のわたしにとっては、最大の賛辞では?と自分の中にいる小人は小躍りして、中国語という炎の周りをぐるぐる回りながら喜んでしまいました。しかし自分の朗読は、あくまでピンイン通りに読んでいるだけの領域だろうとは自覚していました。
自分で勝手に、中国語発音を「地道」にするには、母音や子音の精度をあげていくのとは根本的に違う、何か中国語のあの音楽のようなイントネーションを習得する必要があるような気もしていました。それはテキストで読まれる「きれいな標準語:に近づけるのとは、また方向が少し違うような気がしていました。
老師とのレッスンでは、語尾の一声が高すぎるとか、長すぎるとか、強弱のメリハリがおかしいとか、今まで指摘されたことがないことばかりを言われ、それは嬉しかったのですが、それがレッスン中には殆ど修正できない自分が悲しいです。
また、わたしにとって印象的だった説明は、中国でもきれいな標準語を話せる人はごく僅かだけど、どんなに訛っていても、中国人の発音はすぐ理解できるが、いくらきれいな標準語で話しても、日本人の発音は、不自然で、聞き間違えてしまうというような説明はとても納得できました。
老師の知り合いの日本人は、細かな発音の問題点は多いけど、本当に中国人のような中国語を話すという説明も、勝手に納得できました。
日ごろから、テレビやラジオに出演されている日本人の中国語先生方の発音は、当然間違いはないけれど、まさしく日本人が話す中国語発音だと思っていましたが。。。。。。と、ここまで書いて、恐れ多くも数十年中国語を教えている方々の中国語発音をとやかく言う資格はわたしには無いことを承知しつつ、確かに日本語風味の中国語だと感じてしまうのは初心者が感じてしまうくらいなのだから、ご本人達もその差は認識をされているのでしょう。
そして、この「中国人のような発音」というのは、「正しい発音」からさらに上を目指すことが、困難という領域を超えた、本当に稀な人でなければ到達できない点であるような気もしてきました。
しかし、あるいは。とわたしは思うのです。時には規則通りの発音や四声の高低よりも、重要で、それでいて中国語テキストには書かれていないような、中国語のイントネーションの特徴というのがあるのでは。。。。。。。。。。。と、ここまで書いて、いやいや、そんなものは、あったとしたら、みんなやっているのでは?
と、なんだかわけがわからなくなってきましたが、果たしてわたしの発音はここから中国人風にさせることができるのだろうか?と、常に自分に問いながら、練習をしていこうと思うのですが、まずは文章の正しい意味を、正しい中国語で伝えるということを強く意識した発音をしてみようと思います。挨一挨儿再说吧。