「サンザシの樹の下で」≪山楂樹之恋≫を見て、自分の中国語を考える

先週末に、チャン・イーモウの「サンザシの樹の下で」を見てきました。「チャン・イーモウの、」とわざわざ書くのは、あの物語とあの写真ではわざわざ映画館へ行きたいと思えなかったのですが、とりあえず「チャン・イーモウ」だから見てみようかしらねえ。と昔の知り合いに会いに行くような気もちと似ていて、ぶつぶつ言いつつ結局はチャン・イーモウの映画は殆ど見ているのかもしれません。


日本では、チャン・イーモウの名前は知られてはいるものの、ハリウッドの監督達と違い、監督の名前だけで客が集まるほどではないのか、週末の映画館でも、客は10名程度しか入っていませんでした。
そして、私にとっては、つまらないわけでもないけど、感動するわけでもない、ただ丁寧なプロの仕事を見られたという映画でした。
以前、ネットの自由会話で、中国の若い老師とチャン・イーモウは、1997年の、「有话好好说」「一个都不能少」までだよね。という見解で一致したことがある老師のことを思い出し、久々にまた、「张艺谋を語る会」としてネットのレッスンで、申し込みました。


そもそも、この映画でも登場してくるし、中国の小説や散文によく出てくる「文化大革命」のことをわたしは殆ど知らなかったので、文化大革命についての意見を聞きました。
名前だけは知っていた、毛沢東暗殺事件のことや、四人組のこと、また今は名誉が回復されたらしい、劉少奇についても、老師の考えも入れての説明がとても面白かったです。
老師の説明(考え)でとても印象的だったのは、文化大革命は「政治の道具」であった。という点と、毛沢東は、過ちも犯したが、国を興した功績が遥かに大きいので、その天秤の傾きで評価されているのだというような説明。
また老師はわたし以上にこの映画は、つまらないと言っていたのですが、恐れ多くも中国でも巨匠と呼ばれる監督のつまらなさぶりを語り合うことに喜びを感じざるをえませんでした。
わたしからも、
・知らない農家を訪ねて料理を作らせることについて。
・この映画は純愛映画というより、寧ろその逆で。。
・何故彼女は最後まで彼の名前を言わないのか。
チャン・イーモウが使う赤について。
などなど、普通の日本人と話す映画話ができました。
と、こう書くと、きちんと中国語でコミュニケーションが取れているようですが、実際にはもはや中国のレッスンではなく、映画について語り合うこと、わからないことを聞いたり、自分の意見を伝えることに夢中になり、結構日本語も入り乱れての話だったと思います。


レッスンという名前の映画おしゃべりタイムは、映画のことを話せたという意味では充実したのですが、自分の中国語の聴き取りや、表現能力の低さも改めて実感してしまいました。特に大学を出たばかりの老師の日本語能力が、すでにわたしの日本語能力と殆ど変らないがために、この会話も成り立ったような気がします。
映画の中国語はどのくらい聴き取れたかと聞かれて、50%くらいはわかったような気がする。と言ったのですが、日本語字幕のおかげで、単純な語彙は聴き取ることが出来ました。
老師に言わせると、とにかく50%理解できれば、もっとアニメやドラマや映画を浴びるように見た方がいいと言われました。
と、同じことを半年前から言われていたのですが、現実のわたしは「家有儿女」ですら、わからない表現ばかりで、テキストや字幕があるからこそ、手を出しているような気がします。
原書にしても、まだまだピンインが無いし、知らない単語ばかりで読めないからと手を出せません。
大学の2年目からは、もう日本語のドラマをたくさん見て、教科書よりもドラマで日本語を覚えていったという中国人老師の説明を信じると、わたしの中国語の接し方はまだまだ、臆病なやり方なのかもしれません。


というわけで、これからはドラマや原書に。。という方向に未だならず、また大量の音読をしています。
テキストは中国の中級テキストだけでは飽き足らず、今一度「中国語短文会話800」と、「初級を超えるための中国語単語BOOK」というテキストを嘘みたいに毎日音読しています。
別に会話能力をあげたいわけでもないのですが、この評判がいいらしいテキストの初級編「初級からのシャドウイング 中国語短文会話600」を相当やりこんだのですが、あまり上達を実感できないまま、きれいに机に置いてある姿があまりに不憫だったので、こちらもぐりぐりと使いこんでやることにしました。
また、「初級を超えるための中国語単語BOOK」(またの名を「漢語中級単語1000」と言うらしい)は、七、八割がた知っている単語のような気もするのですが、とにかく例文が難しいのです。成語や慣用語も平気で出てくるし、類義語や反対語も、へえへえ。と印をつけながら、例文を体に染み込ませようと何度も何度も音読をしています。
どちらも一日一課で、だいたい三か月かかるのですが、一日一課という生ぬるいやりかたではなく、毎日新しい一課を覚える以外に、最低でも過去の5課分を復習するというやりかたです。
時間がどれだけあっても足りない感につつまれますが、さらに、こんなやり方は自分でも書いていた却って非効率なやり方やも。という気にも強く襲われるのですが、夏がわたしをして、「地獄の夏合宿」的なものに向かわせるのです。
なでしこの試合の日も、試合開始までずっと起きていようと中国語の音読をしていたのですが、音読をしながら、寝落ちをしてしまい、気づいたらすでに1対1のまま後半が終わるところでした。


 なんとか、あまり冷静に「わたしは何をやっているのだろう」と考えることなく、9月までこのまま進みたいものです。