あなたはいつか、中国人のような文章を書く

一応SKYPEは、中国語のレッスンや友達と話すのに便利と言われて、入れてはいるのですが、今一つ使いこなせてはいません。
以前、知らない中国の方から連絡がたくさんあったりで、あまり使いたくもなかったのですが、わたし宛の意味の分からないメッセージがあったので、問い合わせてみました。
すると、わたしのSKYPEのプロフィールに気取って書いた、朱自清の有名な散文の一節に「也」が抜けているというメッセージでした。
一目で、誰が書いた何の文章だかわかってしまうというのは、日本語の小説に置き換えて考えると、いくら有名な小説でも、なかなか気づくものではありませんし、文法的な間違いでなければ、その修正箇所を気づくというのは、やはり中国での小学校時代に行われているらしい、「文章暗記教育」の賜物なのでしょうか。
そして、ついでといえばついでに、またわたしがブログに書いた中国語がおかしい。という指摘もいただき、修正文章を送っていただきました。谢谢。


前に中華料理屋のおじさんからも同じ文章を修正してもらっていたのですが、同じ修正箇所もありますが、たいていは違う修正となっていました。


たとえば、おじさんが指摘して、わたしもそうだと思った、「心をフジロックに置いておく」というのは、「把」を使う表現にしないといけないはずなのですが、今回は「文法的には把を使う方が普通だけど、原文を活かした」と言われました。
逆に、おじさんはここで「圧倒的に」という表現は中国人の使う表現ではないけど、「わざと、あなたのように使うのもいい」という説明でした。
また、おじさんから変と言われた、「体会到那种情感交织的心情」は、修正されませんでした。
他にも「自然に抱かれる」という表現や「什么时候」の使い方も、それぞれ違うのですが、どちらも、修正文章を見てはなるほどおお、と思います。
ただ、訂正文章を見て、なるほどなるほどと思うものの、修正をしていただいた文章を書けるようになるのかと言うと、まだまだそう易々と中国語力を上げられるわけではありません。


発音にしても、作文でも、あるいは会話でも、自分のアウトプットを修正していただかないことには、自分では間違いを気づくことすら出来ないのですが、ここから自己修正をしていくのが難しいです。ただ大量のインプットで、いつのまにか中国語力の上達を。。ということだけではなく、せっかく指摘された箇所については、きちんと消化して修正をしていかないと、いつまでも、修正されることを満足しているだけで終わってしまう気もします。


というわけで、わたしの原文の思いまでをくみ取って修正していただいた文章はこちらです。まだ、ここは曖昧だとか、何かが足りないとか言われていますが、もうそんなことは、来年の課題ということで!



即使到了现在,每当夏季来临,我还是能够体会到那种情感交织的心情。
在早已过去的十多年里,我一直参加着盛夏的“富士摇滚乐节” 。
那十年,无论是在东京做着工作,还是在家看着电视,我的心一直都在富士摇滚乐节上搁着。就这样我度过着一年又一年。

比起又有谁来了,又听了怎样的演奏,现在想起“富士摇滚乐节”这个词,首先浮现在我脑海里的是:在盛夏的山中置身于大自然怀抱里的日子。
那无与伦比的森林色彩和树木清香、受到太阳或雨水侵袭的皮肤的感觉,以及大自然创作出的不亚于人所制作的单纯而丰润的声色 ,都令我陶醉不已。


清晨,你可以漫步在森林里的林荫小道。
太阳升起的那一刻,不但你被唤醒,连鸟和虫子的心也扑通扑通地跳起来,动物们和你一起叽叽嘎嘎地欢笑着。

午后在会场的很多地方都开始演奏起各种各样的音乐。
不过音乐一停,虫声和鸟声就会在森林里像奏乐似的持续着这个摇滚音乐节。 音乐、动物的声音和夏天一样,充满了活力。
如果你不喜欢摇滚乐,何不选择到竹林里去?在那里有很多吊床。
你想什么时候休息,就什么时候躺在吊床上休息。

黄昏时分,你可以到河边去听音乐。
那里离会场有点儿远,听不清乐队的演奏 ,不过你能够听到很多自然的声音。其中小溪的潺潺和树梢的沙沙最像室内乐了,变化不是太大,但却有一种细腻而美丽的风格。

到了夜晚,经常哗啦哗啦地下起大雨。这时你不可能听到虫声,却能够清楚地听到摇滚乐的铿锵声和大风雨的呼啸声,这反而给你带来一种冲突的美感,因为这本身就是一种庄严而宏伟的音乐。

这些回忆,随着你心情的起伏而做着音量的调节,在你心情愉快时,听起来就像大自然在为你放声欢唱,在你悲伤时,听起来仿佛它也在为你低声泣吟。
无论怎样,今年的夏天即将到来。你肯定已经听到了那里的音乐。