席慕容

昨年の秋は、とにかく早く中国の小説が読みたかったところで、古本屋でみつけた大学2年生用の教科書「心に残る中国語」を発見して、そこで初めて読む中国語の小説的な文章に喜び、何度も何度も読みこみました。挙句には、近所の中国語教師の前で毎週この本の一課を暗唱しました。
その時から暗記が苦手という意識と事実はあったのですが、老師が目を輝かせて喜ぶのが嬉しくて、全ての文章を暗記することに、かなりの情熱をこめていました。この教科書に載っていた作家は、魯迅の名前だけを知っているくらいだったのですが、一年たつと、さすがに有名な作家たちのようで、いろいろなテキストなどで他の作品を見かけるようになりました。
ただ、唯一、席慕容の作品だけは見かけませんでした。この「心に残る中国語」を読んだ時も、一番無国籍で、それでいて個性的な繊細さを感じさせる文章が席慕容でした。とはいえ、老師の説明だと、子供のころに彼女の詩をたくさん読んだという説明だったので、もしかしたら、女性や子供向けの文章なのかもしれません。
その席慕容の短い文章が、「博雅汉语」の第五課に載っていて、とても嬉しくなりました。
そして、今回も、唸るくらい素晴らしい文章であったので、ネットで席慕容のことを語っているブログがないのかしらと調べみたところでは、日本のサイトでは見つけることができませんでした。(実際には慕という字を幕だと思って調べていたわたしがいました)


ここに掲載されている、≪燕子≫のことを説明しているサイトも無かったので、席慕容の文章の素晴らしさを説明するより、原文とついでに、わたしの翻訳(超訳っぽく)を載せます。
席慕容の紹介だけでなく、「博雅汉语」の紹介になるかもしれません。
第五課については、このように単語も文法もとても簡単なのです。わたしが持っている他の中級テキストは、たいて、道徳的な話か、苦労をした話か、あまり内容が無い笑い話が殆どですが、この「博雅汉语」のテキストは、どれも読みごたえがあり、とても気に入っています。
実際のテキストは原文を教材用として、若干文章を変更しているのですが、この下にある文章は原文から引用をし、その翻訳をしてみました。(なので既に著作権は無いのではと勝手に信じ)
また、意訳とか書きつつも、完全に読み間違えている箇所がいくつもあるかと思われます。
間違いを教えていただける奇特な方がおりましたら、ご指摘ください。
この文章の白眉は、やはり最後の段落“在那一刹那”から最後までの文章なのですが、この文書の美しさを日本語にはできませんでした。
ただ、日本の文豪が昔書いていた、「誰がフョードル・ドストエフスキーを訳しても、それはドストエフスキーの文章だ」と、そういうことなのだと思います。
また、この課の課題には、300字程度の作文を二つ書くことになっているので、来週あたりに、わたしなりの、席慕容の文体を真似した中国語の作文を書いてみたいと思います。


≪燕子≫ 席慕容


初中的时候,学会了那一首"送别"的歌,常常爱唱:
  长亭外,古道边,芳草碧连天……
  有一个下午,父亲忽然叫住我,要我从头再唱一遍。很少被父亲这样注意过的我,心里觉得很兴奋,褰快再从头来好好地唱一次:
  长亭外,古道边……
  刚开了头,就被父亲打断了,他问我:
  "怎么是长亭外,怎么不是长城外呢?我一直以为是长城外啊!"
  我把音乐课本拿出来,想要向父亲证明他的错误。可是父亲并不要看,他只是很懊丧地对我说:
  "好可惜!我一直以为是长城外,以为写的是我们老家,所以第一次听这首歌时就特别地感动,并且一直没有忘记,想不到竟然这么多年是听错了,好可惜!"
  父亲一连说了两个好可惜,然后就走开了,留我一个人站在空空的屋子里,不知道如何是好。


わたしが中学生の時、あの「送別」の歌を習って、よく歌っていた。
「東屋の古道沿いに、香しい緑の草が天のように連なり・・・」
ある午後、そう歌っていると、父が突然わたしを呼び止めた。わたしにもう一度、最初から歌ってくれと言うのだ。父がこんな風にわたしに気を配ってくれることは滅多にないので、ちょっと嬉しくなって、すぐにまた最初から、きちんと歌った。
「東屋(长亭外)の、古道沿いに」
歌い始めた途端、父にすぐに止められた。
父はわたしに訊ねた。「どうして、长亭外なんだ。長城外じゃあないのか。俺はずっと、長城外だと思っていたよ」
わたしは音楽の教科書を取り出して、父の間違いを証明しようとしたのだが、父は決してそれを見ようとはしなかった。父はただとても落胆して、わたしにこう言った。
「ああ、残念だな。俺はずっと长亭外だと思っていたんだ。俺の家のことを書いていると思って、最初にこの歌を聴いたとき、すごく感動した。だから、ずっと忘れなかった。まさか、こんなにずっと聞き間違えていたとは。。ひどく残念だ。」
父は続けて二度残念だと言い、そのあと出て行った。一人残されたわたしは、ひとりぼっちになった部屋で、どうしたらいいのか分からなかった。


  前几年刚搬到石门乡间的时候,我还怀着凯儿,听医生的嘱咐,一个人常常在田野间散步。那个时候,山上还种满了相思树,苍苍翠翠的,走在里面,可以听到各式各样的小鸟的鸣声,田里面也总是绿意盎然,好多小鸟也会很大胆地从我身边飞掠而过。
  我就是那个时候看到那一只孤单的小鸟的,在田边的电线杆上,在细细的电线上,它安静地站在那里,鄢色的羽毛,像剪刀一样的双尾。


数年前、石門村に引っ越したばかりのとき、わたしは凯を身籠り、医者の言いつけに従って一人でよく田畑を散歩した。その時は、山中のアカシアの木は濃い緑で生い茂り、緑の中を歩くと、様々な鳥の鳴き声が聞こえていた。田畑の中も、いつも緑で溢れ、鳥達が大胆にもわたしの体をかすめて行った。
わたしはまさしくその時、あの寂しげな一羽の鳥を見つけた。その鳥は田圃沿いの電信柱の細い電線に静かに立ち、羽は黒く割れた尾は鋏のようだった。


  "燕子!"我心中像触电一样地呆住了。
  可不是吗?这不就是燕子吗?这不就是我从来没有见过的燕子吗?这不就是书里说的,外婆歌里唱的那一只燕子吗?
  在南国的温热的阳光里,我心中开始一遍又一遍地唱起外婆爱唱的那一首歌来了:
  燕子啊!燕子啊!你是我温柔可爱的小小燕子啊……
  在以后的好几年里,我都会常常看到这种相同的小鸟,有的时候,我是牵着慈儿,有的时候,我是抱着凯儿,每一次,我都会很兴奋地指给孩子看:
  "快看!宝贝,快看!那就是燕子,那就是妈妈最喜欢的小小燕子啊!"
  怀中的凯儿正咿呀学语,香香软软唇间也随着我说出一些不成腔调的儿语。天好蓝,风好柔,我抱着我的孩子,站在南国的阡陌上,注视着那一只鄢色的安静的飞鸟,心中充满了一种朦胧的欢喜和一种朦胧的悲伤。


「ツバメ!」わたしは、電気に触れたように驚いて立ちすくんだ。
本当に?本当にツバメ?これは、わたしが見たことがなかったツバメなのだろうか?これは本の中に書かれた、お婆さんが歌う中に出てきたあのツバメ?
本当に?本当にあのツバメ?今まで見たことがなかったあのツバメ?本に書かれていて、おばあさんの歌の中に出てきたあのツバメ?
南の熱い陽の中、わたしは心の中で何度もお婆さんがよく歌っていたあの歌を唄い始めた。
「ツバメよ!ツバメよ!おまえは、わたしのやさしくてかわいいツバメだ・・・」
それから数年後、わたしはよくこの鳥とそっくりな鳥を見かけた。ある時はの手を引き、あるときは凯を胸に抱き、毎回、わたしは興奮して子供のために指さして、
「ほら、はやく見て!あれがツバメよ、あれがママの一番好きなツバメよ!」
胸に抱いた凯は、柔らかい唇でわたしの後から、言葉にならない赤ちゃん言葉で片言を話し出した。
空は蒼く、風は柔かく、わたしは子供を抱いて南国のテラスあぜ道に立ち、あの黒く静かな鳥をじっと見ながら、心の中はおぼろげな喜びとおぼろげな悲しみに覆われた。


  一直到了去年的夏天,因为内政部的邀请,我和几位画家朋友一起,到南部的国家公园去写生,在一本报道垦丁附近天然资源的画里,我看到了我的燕子。图片上的它有着一样的鄢色羽毛,一样的剪状的双尾,然而,在图片下的解释和说明里,却写着它的名字是"乌秋"。
  在那个时候,我的周围有着好多的朋友,我却在忽然之间觉得非常的孤单、在我的朋友里,有好多位在这方面很有研究心得的专家,我只要提出我的问题,一定可以马上得到解答,可是,我在那个时候唯一的反应,却只是把那本画静静地合上,然后静静地走了出去。


昨年の夏までずっと、内務省の招待によって、わたしと数人の画家の友人達は一緒に、南部の国立公園へ写生をしに出かけていた。墾丁の天然資源を知らせるカタログの中に、わたしのツバメを見つけた。写真上のそれも、同じような黒い羽で、同じように鋏のように割れた尾をしていた。しかし、その写真の下の解説と説明では、その名前は、「烏秋」となっていた。
その時、周りには大勢の友人がいたのだが、わたしは突然大きな孤独を感じた。友人の中には、鳥について非常に詳しい専門家がいたので、この問題を彼らに聞きさえすれば、きっとすぐに答えをもらえた。しかし、わたしがとった唯一の行動というのは、ただこのカタログを静かに閉じ、それからそっとその場を立ち去るだけだった。


  在那一刹那,我忽然体会出来多年以前的那一个下午,父亲失望的心情了。其实,不必向别人提出问题,我自己心里也已经明白了自己的错误。但是,我想,虽然有的时候,在人生的道路上,我们是应该面对所有的真相,可是,有的时候,我们实在也可以保有一些小小的美丽的错误,与人无害,与世无争,却能带给我们非常深沉的安慰的那一种错误。
  我实在是舍不得我心中那一只小小的燕子啊!


あの瞬間、わたしは突然、何年も前のあの午後に父が失望をした気持ちを理解したのだ。実際に他人に聞く必要は無かった。わたしの心の中ではすでに自分が間違っていることが分かっていた。
しかし、わたしは思うのだ。時には、人生という道の途中で、わたしたちは、あらゆる真実に直面するべきかもしれないが、しかし、時には小さくて美しい誤解を心に抱えてもいいのだ。人に害を与えず、世間とも争わず、それでいてわれわれには非常に深い安らぎを与えてくれる誤解というものを。
わたしは本当に、自分の心に住むあの小さなツバメと別れたくないのだ。