史铁生 ≪我的梦想≫ 後半


わたしは、外国語現代小説マニアなのですが、本当に中国の小説については疎く、何も知らないにも等しいです。ただ、現実的にまだまだ日本では一般的な現代海外文学の紹介され方において、中国現代文学の紹介は、無いに等しいくらい少ないものだと思います。
中国語に興味を持っていることのひとつに、紹介されていないのなら、今の作家を原文で読んでみたいという願望もありました。そこで中国語に触れ始めてから、原文は「いつか」読みたいものだということで、書店やネットの片隅にある、中国語文学の翻訳本を集めてもいます。
その中にひつじ書房から出ている、「中国現代文学」という一年に二回出版される本があります。掲載作品を全て読んでいたわけではないのですが、また今日、この本を開いたところ、今まで全く興味が無かった、「随筆」という欄に、史铁生の作品があるのを発見しました。手元には、1,2,6巻しか見つけられなかったのですが、全ての巻に、この史鉄生の文章が掲載されていたので、一気に読んでしまい、さらにネットの古本で見つけられた、徳間書店の「現代中国文学全集」3巻が、この「史鉄生」だけの本となっているようなので、これも注文をしてしまいました。
これら、日本語で翻訳を読んだ铁史生は、鮮やかな切り口という印象すらあるのですが、このテキストに掲載された文章はどうも、うまく訳せない個所が多いからか、くどくとした文章になってしまいました。
特に、どうしても適切な日本語に出来なかった個所を赤くしてみました。
ただ、日本語にしてみなかったら、おそらくなんとなく理解できたと思って先に進んでしまったことでしょう。
と、またどなたかからの修正をいただけることを信じて、残りの中国語とわたしの日本語訳を載せます。


失意
  奥运会上,约翰逊战胜刘易斯的那个中午我难过极了,心里别别扭扭别别扭扭的一直到晚上,夜里也没睡好觉。眼前老翻腾着中午的场面:所有的人都在向约翰逊欢呼,所有的旗帜与鲜花都向约翰逊挥舞,浪潮般的记者们簇拥着约翰逊走出比赛场,而刘易斯被冷落在一旁。刘易斯当时那茫然若失的目光就像个可怜的孩子,让我一阵阵的心疼。一连几天我都闷闷不乐,总想着刘易斯此刻会怎样痛苦;不愿意再看电视里重播那个中午的比赛,不愿意听别人谈论这件事,甚至替刘易斯嫉妒着约翰逊,在心里找很多理由向自己说明还是刘易斯最棒;自然这全无济于事,我竟似比刘易斯还败得惨,还迷失得深重。这岂不是怪事么?在外人看来这岂不是精神病么?我慢慢去想其中的原因。是因为一个美的偶像被打破了么?如果仅仅是这样,我完全可以惋惜一阵再去竖立起约翰逊嘛,约翰逊的雄姿并不比刘易斯逊色。是因为我这人太恋旧,骨子里太保守吗?可是我非常明白,后来者居上是最应该庆祝的事。或者是刘易斯没跑好让我遗憾?可是九秒九二是他最好的成绩。到底为什么呢?最后我知道了:我看见了所谓“最幸福的人”的不幸,刘易斯那茫然的目光使我的“最幸福”的定义动摇了继而粉碎了。上帝从来不对任何人施舍“最幸福”这三个字,他在所有人的欲望前面设下永恒的距离,公平地给每一个人以局限。如果不能在超越自我局限的无尽路途上去理解幸福,那么史铁生的不能跑与刘易斯的不能跑得更快就完全等同,都是沮丧与痛苦的根源。假若刘易斯不能懂得这些事,我相信,在前述那个中午,他一定是世界上最不幸的人。
  在百米决赛后的第二天,刘易斯在跳远比赛中跳出了八米七二,他是个好样的。看来他懂,他知道奥林匹斯山上的神人为何而燃烧,那不是为了一个人把另一个人战败,而是为了有机会向诸神荽耀人类的不屈,命定的局限尽可永在,不屈的挑战却不可须臾或缺。我不敢说刘易斯就是这样,但我希望刘易斯是这样,我一往情深地喜爱并崇拜这样一个刘易斯。


失意
オリンピックで、ベン・ジョンソンがルイスを打ち負かしたあの午後、わたしはとても悲しかった。夜までずっと激しく落ち込んでしまい、よく眠る事も出来なかった。
目の前には、常にあの湧きおこった午後の一場面が浮かぶ。あらゆる人は、みなジョンソンを歓声で迎え、あらゆる旗と花はジョンソンに向けて振られ、記者達は波のように押寄せて競技場を出るジョンソンを取り囲んだが、一方でルイスはその傍らで冷たく扱われていた。その時にルイスの茫然自失となっていた眼差しが、可愛そうな子供のようで、またひとしきり残念な気分にさせられた。
数日間ずっと、憂鬱な気分が続き、ルイスもまたこのように苦しんでいるだろうと考えた。テレビであの午後の試合が再放送されるのは、もう二度と見たくなかったし、誰かがその出来事を話すのを聞きたくもなかったし、ルイスの代わりになって、ジョンソンを嫉妬すらした。
自分の中では、いくつもの理由を見つけて、今でもルイスが一番なのだと、自分に説明しようとした。しかし勿論こんなやり方は役に立たなかった。わたしは結局ルイス本人よりもさらに敗北感を味わい、ひどく自分を見失ってしまった。
これは、奇妙なことではないだろうかであろうかよその人からみたら、まるで他人にこんな風になってしまうのは、精神病ではないだろうかあろうか
わたしはゆっくりと、その原因を探してみようと思う。これは、わたしの美しい偶像がれてしまったからなのだろうか?
もしもただそれだけなら、わたしは暫くルイスのことを悲しみ惜しんでから次にジョンソンを受け入れる(を偶像とする)ことも完全にできるだろう。ジョンソンの雄姿もまたルイスと比べて、そう遜色がなかったのだから。
わたしは古きを愛しむ人間でもあり、骨の髄まで保守的でもあるからだろうか。いやそんなことない。実はわたしはとてもよく理解できたのだ。後から来た者が先を行く者を追い越すことこそ、祝うべきことなのだ。あるいは、ルイスが勝てなかったことが、わたしを残念がらせているのだろうか。しかし、9秒92が彼の最高の成績なのだ。いったい、なぜわたしはこんなに残念な感じをもったのだろうか。
わたしは、最後に理解できた。わたしは、いわゆる「最も幸せな人」の不幸を見てしまったのだ。ルイスの呆然とした眼差しはわたしの「最幸福」という定義を揺さぶり、そして続けて粉砕をした。神は未だかつて何人たりとも、「最幸福」という三文字の施しをしたことがない。神はあらゆる人の欲望の前に永遠に辿り着けない程の距離を設け、公平に一人一人に限界を与えたのだ。
もしも、自己の限界をも超えた、果てしない人生の道のり途上で幸福を理解できないのであれば、わたし史鉄生が走れないということと、ルイスがもっと速く走れないということは完全に同じことであり、そのことが双方の失望と苦しみの根源なのだ。
もしルイスがこのことが分からなければ、わたしはそう信じているが、先に述べたあの午後、彼は世界で最も不幸な人であっただろう。ただ100メートル決勝の次の日、ルイスは走り幅跳びの試合で8メートル72を跳んだのだ。彼は本当にたいした奴だ。
彼は理解していたようだ。彼はオリンパス山の神が何のために火をもやしているのかを知っている、それは一人の人間が別の人間を打ち負かすためではなく、八百万の神オリンバスの神々に対して、人類の不屈さを誇示する機会を持つためだ。宿命的な限界は永久に存在するのだが、しかし不屈の挑戦は一瞬も欠かすことが出来ない。
わたしはルイスもまたこう考えているとは言えないが、しかし、ルイスもこのように考えることを望む。このようなルイスにこそ、わたしはひたすら憧れ、しかも崇拝する。




梦想
  这样,我的白日梦就需要重新设计一番了。至少我不再愿意用我领悟到的这一切,仅仅去换一个健美的躯体,去换一米九以上的身高和九秒七九乃至九秒六九的速度,原因很简单,我不想在来世的某一个中午成为最不幸的人;即使人可以跑出九秒五九,也仍然意味着局限。我希望既有一个健美的躯体又有一个了人生意义的灵魂,我希望二者兼得。但是,前者可以祈望上帝的恩赐,后者却必须在千难万苦中靠自己去获取批我的白日梦到底该怎样设计呢?千万不要说,倘若二者不可来得你要哪一个?不要这样说,因为人活着必要有一个最美的梦想。
  后来知道,约翰逊跑出了九秒七九是因为服用了兴奋剂。对此我们该说什么呢?我在报纸上见了这样一个消息,他的牙买加故乡的人们说,“约翰逊什么时候愿意回来,我们都会欢迎他,不管他做错了什么事,他都是牙买加的儿子。”这几句活让我感动至深。难道我们不该对灵魂有了残疾的人,比对肢体有了残疾的人,给予更多的同情和爱吗


このように、わたしの白日夢は再度新しく作り直す必要があった。わたしが悟ったこの全て −ただ健康な体に変わりたいとか、1メートル90センチ以上の身長と9秒79ないしは9秒69の速さで走りたいとかは、少なくとも二度と望まなくなった。その原因はとても簡単だ。わたしは来世である午後に最も不幸な人になりたくないからだ。たとえ9秒59で走ったとしても、それは依然として限界があることを意味している。
わたしは健康で美しい身体を持つことと、また人が生きる意味を理解している魂を持つこと、この両者を共に得ることを望む。しかし、前者は神様からの恩恵を待ち望むことであり、後者は必ず困難や苦しみの中で自分の力を頼って白日夢を得ることであるが、いったいそれは、どうやれば作れるのだろう?
もし両者が得られなければ、どちらが欲しいかとは、どうか聞かないでほしい。それを言う必要は無い。人が生きることは、最も美しい夢が必要なのだから。
あとで知ったことだが、ジョンソンが9秒79で走ったのは、興奮剤を飲んだためであった。これについて、わたしたちは何を言えるだろうか?わたしは新聞でこのニュースを知った。彼の故郷であるジャマイカの人たちは、こう言ったのだ。「ジョンソンはいつでも戻ってくればいい。わたしたちは彼を歓迎する。彼がどんな過ちを犯しても、彼はもちろんジャマイカの子供なのだ」この言葉にわたしはとても感動した。わたしたちは、体が不自由な人たちより、精神の具合が悪い人たちへ、より思いやりや愛を与えるべきなのではないだろうか。