中国で、「中国語は絶対勉強するな」と言われる


上海の地下鉄は毎日利用をしていたのですが、改札手前に監視人のような方がいて、彼が指をさす特定の人は荷物検査をさせられ、わたしは必ずこの荷物検査をさせられてしまい、まだまだ自分の風体は上海に馴染んでいないのだなあと、実感させられました。
2週間も生活すると、面白いことも嫌なことも多く、印象的な事件も少なくなかったのですが、最後の一日のことと、その日に読んだテキストの中国語文とわたしの適当和訳を下に載せます。



中国の最後の朝食は、何日も中国語の相手をしてもらった研究生の方たちと、屋台で小吃を食べ、またその後、近くの公園で彼らの老師と呼ぶ方とも話をする機会を作っていただきました。
例によって片言の中国語で話をすると、「あなたは若くないのに、なぜ中国語を始めたのか?」と聞かれて、他の方たちに答えていたように、「中国の小説に興味があって,什么什么。。。」と答えようとしたのですが、何故か急に、「中国人のような中国語で文章を書けるようになりたい」というようなことをほざいてしまいました。すると「それは、あなたにはとても難しい。」と即座に言われてしまいました。ちょっと心の底で泣きそうになると、「毎日ものすごい努力を続ければ、10年後には、中学生のような文章が書けるかもしれない」
それは四年(sinian)ですか?と聞き返したのですが、鼻で10年(shinian)!といわれました。



また、わたしの中国語会話水準は、中国に来た真面目な日本人の四か月後水準だと言われました。さらに、数日前に研究生の方の前で全文を2,3度朗読した、テキストの文章を音読してみることになったのですが、5,6分の間に発音と四声の間違いを何度も指摘され、一段落をようやく終わらせられた体たらくでした。研究生の方たちでは「好、好」と通してもらっていたアクセントや、発音の殆どを修正させられました。



また、中国語の普通話とは、幻想でしかないとか、普通話はテレビニュースと、一部の大学の一部の教壇の上にしかないとか、北京人はひどい北京訛を標準語だと勘違いしているとか言われましたが、北京人と話すのなら、北京訛の中国語でいいし、上海人と話すのなら上海訛の中国語でいいとか。また、あなたは(若くないので?)、面白くない会話文を暗記したり、HSK試験の勉強をする必要は無い。中国の大人が読んでいる文章を毎日大きな声で音読をしなさい。という指導もいただきました。


それは、まさしく今のわたしと中国語とのつきあいだったのですが、「でも音読をすると中国語の意味が頭に入らないのです」みたいなことを中国語でどういうのかと考えているうちに、この短い一段落を老師が強い声で読まれたのですが、それはまるで美しい歌のようなメロディとリズムがありました。
その文章は、わたしにとっては、ちょっとややこしく長い文章なのですが、言葉の意味が、わたしの頭の中に直接響き、はじめてこの文章の意味を理解でき、それでいて長い音楽や物語に接した時のような感動がありました。それはこの文章自体の意味と、この老師の美しい読み方と、またこの2週間の中国生活や、今まで決して短くはないわたしの一年と九か月の中国語生活が一緒くたになって頭の中を回ったからだったと思います。


老師は目と足の具合がよくないようでしたが、わたしが時間なのでと立ち上がると、それを察して立ち上がり、強い握手を求められました。
何度もわたしの手を強く握って振ると、「十年じゃあない、4年の間違いだった」と言われたので、またわたしの心は涙ぐんでしまいました。またわたしは、老師が手本として読んでくれたイントネーションをせいいっぱい真似し、「即使所有的青藤树都倒了,我也要站着。即使全世界都沉睡了,我也要醒着。」と言おうとしたのですが、どうも途中から、顔についている目も湿っぽくなってしまったので、最後まで言うことが出来ませんでした。
そして顔を上げると、いつのまにか何人もの老人たちがわたしのことを取り囲んでいて、嬉しそうな笑顔でわたしのことを見ていました。