レッスンという名の舞台

今は週に一回、skypeで発音を見ていただくレッスンをお願いしています。
中国語関係について、読んだり聞いたり見たりといろいろなことをやっているかのようなことを書いていますが、常に自分にとって一番の中心なのは、レッスンの準備と復習と、そのレッスンです。
発音レッスンの準備と復習は何かというと、自分が音読をしたり、お手本を聞いては、そのお手本を真似して発音したりすることが中心でした。
さらに課題の中国語を咀嚼するように読むことと、レッスンを録音して、それを聞き返すことも効果があります。
「効果があります」などと自分で書くと、「おいおい」と、老師からツッこまれているような気もして少し恐いのですが、当社比では135%くらいの効果を感じられます。。。たぶん。


先月から、ひたすら「匆匆」の音読をしているのですが、そもそもわたしには難しい用語がある上に、ぴんと来ない描写がいくつかあったのですが、およそ一か月読み続けると、ようやく文章の意味がわかるようになってきた気がします。
音読をする前に自分で翻訳をしたのですが、ここでは辞書をひきひき訳していたに過ぎず、ただ中国語という言語を日本語という語彙に置き換えてみましたァの水準でした。
同じ文章を何度も何度も音読をして、発音をみていただいていると、それなりに、間違いも直ったり直らなかったりを繰り返しながら、少しずつ発音が修正されているようなのですが、またその発音以外にも、文章の理解度が深まります。
発音を意識しながら、読むことに精いっぱい状態は続いているのですが、ようやくこのテキストの音と意味が繋がってきた段階です。
そして、一か月前にこの文章を読み始めた頃は、作者である朱自清が、自分の一生の短さを嘆いているような印象だけでした。それが、読み始めて一か月たった今は、自分の目の前から「逃げていく」ものを捉えるようとして、決して捉えられない様々な描写に目がいきます。この文章の全てが、この自分から逃げ去るものへの描写とも言えます。
ただ、決して言語の置き換えだけでは、伝わらないことだとも思いますし、また決して文学性などという問題ではなく、この伝わらなさが言語の違いなのではないかと思います。と同時に、それでも拙い翻訳であっても、基の文章自体に含まれている物たちの純度が高ければ高いほど、それなりの翻訳でも何かしら作者が記そうとした小さな断片たちが、心に届くこともあるのだと思います。


最初の頃のわたしの音読は、もちろん和訳をして意味を捉えていたつもりのはずなのに、老師の聞くところで読んでいると、だとだとしく四声つきのピンインという言語を読み通しているだけだったのが、わたし固有であるらしい過ちを何度も何度も修正を繰り返して、間違いではない音に近づくにつれて、ようやく自分の口から出てくる音に意味がついてきたような気がします。
そのSkypeでのレッスンという決められた時間をすごすためには、相当な準備を繰り返しているのですが、自分で黙々と繰り返していると、はたしてこの音が正しいのか、わからなくなってきます。
そこでレッスンの録音音声を何度も聞いているのですが、ひとつには、まさしくレッスンを何度も繰り返すという、奇妙な面白さがあります。老師がダメを出されて、指摘された箇所を発音している自分の声と一緒にまた、わたしも音を出します。そこでまた、その音に対して指摘された説明が、まさしく今、自分の出した音へのコメントにもなっています。また何度も繰り返しているうちに、自分で口や舌の動かし方について、気づいたことを話している自分の言い分についても、頷いたり、それは違うだろうと思ったり。。を何度も何度も繰り返して、ようやく、わたしにとっての試験会場でもあり、観客が一人だけの舞台のような場所で本番を迎えることになります。


それだけ練習をしても、わたしの発音の進歩は蝸牛のような速度で、いまいち冴えない場所から、ゆっくりとどこかへ動いているだけのような気もするのですが、発音の練習とレッスンで得られるものは、決して口や舌の動きだけでな無いと思います。
それには、老師が選んでいただいた課題文の内容による要素も大きいとは思うのですが、何度も朗読を繰り返すことで自然と覚えてしまう言葉たちは、ビジネス用語ではないし、日常口語でもなく、すぐ使える言葉とは違うのですが、何度も何度も音に出すにつれて、とても純度が高い鉱石が現れてくるような感覚が味わえます。
わたしにとって中国語の発音練習は、永遠にたどり着けない天竺のような場所を目指しているような感覚になることもあるのですが、それでも、決して点数や時間では測りたくもない場所への道程だと思います。


わたしは、今まで決して多くは無い老師たちから、中国語を教わって来たのですが、その最初から、今の老師まで、ずっとひとつの流れに繋がっていて、同じような「何か」を教わり続けている気がします。
その「何か」は、決して中国語という言語のことではないのですが、その「何か」のために、これからも、できるだけ長く中国語とはつきあいたいと考えています。そして、近くに中国語を話す人がいなくても、自分で中国語という音を出してこそ、中国語とはつきあえるのではないかと考えるようになりました。


では、スペースが余ったので、Adele の Chasing Pavements を聴きながら繁体字を。