「無言歌」のことを思い出してみる

・映画の内容について完全に触れています。



まったく中国語とは縁の無い知り合いと、映画「無言歌」を見に行きました。わたしは勝手に文化大革命の頃の映画と思っていたのですが、実際は文化大革命前に毛沢東が採った「反右派闘争」という出来事であることをその知り合いから教わりました。
映画の冒頭に「毛沢東は人々に自由に政府を批判させ、その批判させた人たちを捉えた。彼らは政府に騙されたのか?」というような日本語字幕が入りますが、もしかしたら、この字幕は日本公開用のオリジナルなのかもしれません。
もしこの情報が無く、さらに中国の歴史知識が全くない人が見れば、殆ど政治メッセージを感じられないかもしれません。そして、それこそワン・ビンの狙いなのかもしれません。
欧米でのインタビューでは、「わたしは政治に全く興味が無い」と言っている発言も決して、嘯いているわけではないのねと思える映画になっています。
映画を見る前の想像と大きく違ったのは、観客にとても優しい映画になっていることです。常に穴の中や、砂漠、夜という視界の悪い映画はどうなのかしらという危惧は全く必要なく、巧妙なテクニックによって、常に映画には一定の光量が与えられています。
また、全員の普通語も奇麗で、特に女優さんの発音は、北京大学が作成している教材のナレータなのではないかと思われるほどのきれいな発音に驚きます。
と、そんな瑣末に見える舞台環境の事が、この映画の観客への姿勢の全てでもあると思います。


全く農地には見えない砂漠を開墾する労働と、少ない食料、どんどん死んでいく仲間たちという環境になっても、声高に運命を嘆く者も、何かを訴える者もいません。そもそも、この映画には本当の「悪者」は登場しません。この施設の所長ですら、かなり意図的に囚人達のことを考えている、温厚な性格という役割を与えられています。

このワン・ビンの映画「無言歌」を、文学のソルジェニーツィン収容所群島』と対等に評している映画批評も読んだのですが、それはあまりに全く異質な物の比較だと思います。ソルジェニーツィンが描く先には、明確な戦う相手が存在するのですが、この映画は、また巧妙にそれが隠されています。
わたしには、万里の長城を作るために、労働として連れて行かれた男達の物語を想像してしまいました。そして、万里の長城の作成で連れて行かれた夫を探して、泣き声で万里の長城を壊してしまう女性の昔話と、とても似た話までこの映画には挿入されます。
そして、ここに収容されていた今まで仲間の介護をしていた者が、所長から自分の部下になってくれと依頼されて、おそらくそれを受け入れるという、静かで品があり、とても映画文法に則った正統的な終わり方をします。


わたしは、決して悪い意味でなく、ワン・ビンはこれからハリウッドやアメリカ資本の劇映画を撮ることもありうると思うし、それこそワン・ビンの映画への姿勢でもあると思うのです。またハリウッド映画やアメリカ映画を撮るようになっても、彼には譲れない中国人を描き続けるという、どこの映画会社のマークがつこうが、中国映画を撮り続けてほしいです。


少し前に、内田百輭の小説「件」を勧めた方に、とてもこの小説が面白かったと喜ばれ、相当自分で内田百輭を読んだらしく、特に百輭の「サラサーテの盤」が面白かったと言われました。

サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫)

サラサーテの盤―内田百けん集成〈4〉 (ちくま文庫)

まさしく、その日に聞いたラヂオでは、小川洋子がこの小説「サラサーテの盤」が何故か2011年の一番だとか、「わたしはこの小説が好きな人と友達になりたい」と話していたのが面白かったです。
確かに中国の書店では、村上春樹と並んで小川洋子の小説もたくさん積まれていました。村上春樹小川洋子が中国で受け入れられる要素を考えれば、内田百輭の小説も、とても好まれる要素があるのかもしれません。逆に内田百輭の小説のいくつかを中国現代文学の翻訳だと言われれば、全く疑問に感じないような気もしてきました。
そうだ。これから中国の小説好きな人に日本の小説を進めるときは、まず内田百輭を薦めることにしよう。


年末年始は、中国語三昧の生活が出来るかと思ったのですが、いろいろと用事が出来てしまい、なかなかそうもいかなくなってしまいました。それでも、なんとなく補語強化冬休みとしたいです。