いつかは待っているだけではいつまでもやってこない

年末年始は、あまり中国語に時間を割けませんでした。また3月くらいまでは中国語にはさらに限られた時間だけを使うしかないのですが、それでもというか、それでこそ、意識して中国語習得のための工夫をしなければ・・・と真摯に考えています。
もう、しばらくはタイトルを変えて「やっぱ中国語は勉強しなきゃだめだワン」みたいな心持ちです。


仮に10年後の中国語習熟度を想定すると、読んだり聴き取る能力については、やはり「まだまだ」感が残るでしょうし、それは永遠に届かないところに向かう行為でもあるように感じますが、それはそれで少しでも精度を高めていこうと思うのです。でも発音については、10年といわず、何とか5年くらいで、もう少し地道感を高めたいものです。


そう思うのは、ただでさえ、膨大にある(ような気がする)中国語語彙が日々増加し続けているところを見るにつけ、こちらは次第に穴が大きくなっていく自分の脳味噌でそれに対応させるには、やはり永遠に追いつけないアキレウスのような感覚にもなります。
何もかも覚えるそばから漏れていくような、わたしの劣化が激しい脳味噌に新しい語彙を定着させるには、さらに漏れていく量以上の中国語を上から注いでいくしかないのかもしれません。
ただ。。と思うのです。ただ、発音については、有限なハズなのだから、この有限の組み合わせくらいは、数年重ねていきさえすれば、いつかなんとかなるのだと思っていました。
さらに昨年から、丁寧に老師に発音を見ていただいているので、このレッスンをなんとか継続していけられれば、なんとかなるのではと思ったのですが。。
やはり、発音についても、そう簡単なものではありませんでした。
よく四声の難しさについては、単音の四声であれば、多くの人ができるのに、それが二音の組み合わせになったり、文章の中の四声を正確に表現することの難しさは説明されています。
それと同じように、発音についても、いや発音こそ組み合わせの難しさを感じます。
当然単音自体の問題もあるのですが、ある音は単音であったり、他の音と一緒に出すときは問題がなくても、ある音の繋がりや、また声調の要素が入って、とても発音し辛い音があります。となると、それこそ有限な発音についても、限りなく無限に近い結びつきとなって・・・・
いやいや、それにつけても、発音の問題は限定し易いので、いつか限りなく満点に近い発音が出来るのでは。。と思っているのですが、ど、どうですかあ?


発音をとても丁寧に見ていただくと、間違い箇所をできるだけその場で修正して、また次のレッスンでは、違う箇所や、同じ間違いがあったとしても、それを繰り返して行けば、次第に修正箇所が少なくなるはず!という単純に考えていたのですが、そういう単純な問題でもないのかもしれません。
もう数か月「匆匆」を読んでいるのですが、未だに「时候」の特にhouについて、指摘されます。多くは「ou」の口の動かし方についてですが、やはり「时候」としての諸々の整わせ方を指摘されます。
「我」についても、出来るようになったと思うのですが、今でも油断をすると、そこの「我」は、「e」が感じられないと言われてしまいます。
ある時は、およそ一時間「头涔涔而泪潸潸」を続けていたのですが、やっと出来るようになったと思ったら、やはり忘れたころに、いろいろな問題を指摘されます。これも「an」と「ang」の問題もあるのですが、それだけの箇所ではないため、以前は朗読がこの箇所に来るたびに、いったん立ち止まって深呼吸をしてから、踏み台に向かうような心境でした。
「r」の発音も何度か修正されましたが、何故か「一日」になると、特に「ri」の音が上手く出せなくなりました。
直近では、「旋转」の発音も何度も修正されました。この単語も四声と、xuanとzhuanの「an」の違いや、「n」できれいに止まっていなかったりですが、一番は、zhがローマ字の「j」のように聞こえるという衝撃的な指摘でした。今まで自分のzhのそり舌音については問題がないと思っていたのですが、それは、ローマ字のJと言われると、「そ、そうなのかも?」と、老師がするわたしの真似をしたそり舌と正しいそり舌の区別も出来ない体たらくでした。さらに洗手の発音では、それぞれのxとshの子音が、影響されて正しく出来なかったり。たりたりで、まだまだ上手な発音のかなり手前の、正しい発音という壁すら遠く感じてしまいます。
ただ、結局は中国語発音に対しても、不器用な自分の口の動きや脳味噌へ、大大量の正しい音読練習をしていくしかないのだと、袖を捲って思っている次第です。


と、実は明日の発音レッスンのために、自らレッスンのハードルをあげてみのたですが。。どうでしたでしょうか老師 <(`^´)> 。