今週のブログお題:中国語が上達したなあ!と感じたとき

尊敬する小Qさんが提案して、今日本中の中国語学習ブログが書いているという、こちらのお題にわたしも乗ってみます。



・ちょっと前
中国語で何を聞かれても、わからなくてアタリマエ〜と堂々としていられる。
・それから今
中国語で何を聞かれても、満足に答えられないことに、どぎまぎしてしまう。


まあ、どっちもダメなことには変わりがないのですが、以前は人と人の関係を超越している感じです。
今はようやく人と人の正常な関係に近づいたというレベルでしょうか。


もうひとつ、今日リアルに感じたのは、去年までは、右の瞼がびくびくすると、あれ、このびくびくってば、中国でどういう意味だったのかしらん。
と人差し指を顎にあてて可愛く考えていたのですが、今は「また右の瞼が震えているか、けっ、おいらの人生酷いことばかりだ」と思えることでしょうか。
かと言ってすらすら「左眼跳财,右眼跳灾」と言えるわけではありませぬ。


また、以前なんちゃって中国語自由会話をやっていて思ったのは、例文を作れと言われると、やはり身近な自分に関係のある話を例文で作るのですね。
たとえば「高校生の頃は学校を出た途端に必ず女性達に囲まれた」とか、「家の猫は自分で蛇口をひねって出す水以外は決して置いてある水は飲みません」とかとか、複文の例文を必死に结结巴巴と話すと、この中国語が正しいかどうかよりも、この例文の内容について突っ込まれるのですね。
で、話はどんどんそれていき、それはどんな猫なのか?とか、言われると、待ってましたと、猫動画を送ったり、適当な猫エピソードを話したりしているうちに、もうわたしの性格から「何も考えないで作った中国語例文の話を進めるしかない」みたいな状態になります。
いろいろな老師とそんな自由会話をやっていると、もう以前の自分のキャラがわからなくなりますが、そもそもが適当で自分を持っていない人なので、まあ適当に作り話に作り話を進ませていきます。


と、こういう自分の性格と言うか行動を中国語で表現しているかもしれないテキストに最近いくつか、出会いました。
そのひとつは、自分の誕生日ケーキを同部屋の友人に食べられてしまい、その友人は友人で「わたしの誕生日にきっとわたしのことを好きな男がおいていったに違いない」とか真剣に誤解しているのですね。
そこで、彼女はそれは自分のケーキだと言わずに、あなたにケーキを置いていった男を見たよと、彼女の美しい誤解に話を合わせてやるという話でした。
また、もうひとつのテキストでは、初めてのデートでコーヒーに塩を注文してしまった男が、「実はわたしの故郷の海の味が恋しくて、わたしはいつも塩を入れている」という話が彼女が気にいって、最初は相手にされないというくらいの差を感じていた二人が、結婚をするのです。
で、それから二人幸せにくらした数十年後に彼は遺言状で、本当はコーヒーに塩を入れたのは、緊張して間違えてしまったから。嘘を言ってしまったが、それを嘘だと言うと彼女から嫌われると思って嘘だと言えなかった。許してほしい。と書いて、彼女を感動して泣かすわけ話でした。
信的内容令大吃一惊,她多想流着泪告诉她;“她是世界上最幸福的人,因为有人为了她,能够用一辈子去实践一个谎言。”


これを「将错就错」というらしいですが、そうこれこれよ。しょうもない嘘を言って、きれいな話にしてしまうという力技。。。
そんな生き方こそ、マイライフアズアライとして、この「将错就错」をわたしに座右の銘としていつも、社員証と一緒に首にぶら下げておくことにします。


今は中国の中級テキストを独学で使っているのですが、何度も書いている「博雅汉语中级冲刺篇」が半端なく難しいです。そこに書かれている文章は辞書をひいて単語の意味がわかっても、一文が長いと、文章の構造が掴めなくなってしまいます。さらに内容がアルカリ性と酸性がどうとか、動物は殺されるときに毒素を発するので動物を食べることは体に悪いのだとか(物凄い噛み砕いた説明)日本語でも読み難いような文章が出てきます。一方で、そんな文の構造を心配しているより、未だにこの簡単な漢字の四声に自信が無いと、四声を確認するために辞書をひきます。せっかく辞書をひくので、できるだけ例文を読んだり、また例文のわからない単語を調べたりと、PCの辞書を検索する時間が、相変わらず長いです。
使っている辞書は、おなじみのChineseWriterに入っている辞書ですが、この統合ソフト?がバージョンアップするようです


しかし、今使っているバージョンと大きな違いがあまり感じられず。。中中辞典が入ってその辞典の例文検索ができるという機能が、購入すべき物なのかちょっとわからないので、しばらくは今のChineseWriter9を使いつづけます。


また社内で、中国に半年行っていたという方の中国語を聞かせてもらいました。「あんた、すごい訛っているよ」とは言えませんでしたが、見事に「shi」を「すぅ」と発音するのですが、わたしの耳には、完璧な中国人としか思えない話し方をされていました。
やはり上海で勉強をしていたらしいのですが、個々の音は標準語とはかけ離れていても、決してマシンガンのように早く話す訳でもないのですが、「俺は中国人と同じ言葉を使っているぜ」という強烈なオーラを感じました。
もしかしたら、南方訛のせいで、わたしの耳にはより本格的臭さを感じてしまったのかもしれません。ああ、こんな風にわたし中国語を自分のもにしたいわあと思って、いろいろ聞いたのですが、想像を絶するガリベン式というか、もろ加藤嘉一さん方式でした。


今も心の中心は発音レッスンです。
未だに朱自清の「匆匆」を続けているのですが、「匆匆」は日本で二番目くらいに音読しているのでは?(一番は同学のもといさんでしょうか)というくらい繰り返しているのですが、「时候」「没有」の音が違うと何度も言われては、一週間練習の成果を見せてやろうとレッスンに臨むのですが、事も無げに同じ間違いを指摘されます。未だに「我」も油断をすると間違っていると言われます。しかし、次第に間違いを指摘されて、修正できる回数が少なくなったのが僅かな救いでしょうか。
あと、老師がたまに、そこは「きれい」と言っていただけるのですが、わたしの今年一番の野望は老師に「そこもあそこも、みんなきれいよ」と言われることなのですが、(これは、やはりあまりに高いハードルなので、「あなたの没有は日本人の羊のメェイよ」と言われなくするあたりで、どうにか。。。

もっとも何か根本的に老師の発音との違いを感じます。それが何なのかは、スペースがないのでまた次回に。