運命の子

わたしの、中国語は二年やっただけとはいえ、それなりに時間をかけているつもりなので、第2外国語で中国語をちゃらちゃらと専攻している大学生よりは、ましなはず!?と根拠なく思っていたところ、遠い親戚にいました大学2年生で中国語専攻している野郎が。
その野郎に新年に会ったところ、今2年生で来年は中国の大学に留学が決まっているというので、新HSK5級を受けるらしいです。新HSK5級に受かるかどうかで本科に入れるかどうかが決まるというので、なんとか試験も受かりたいけど、他の試験もあってサークルもデートもあって、と大学2年生はたいへんらしい。
中国語歴において3か月先輩のわたしとしては、ナンチャッテ中国語で話しかけたところ、抑揚のある中国語で返されてしまいました。「本場の中国語みたい」とは、思っても口にしません。
6月に試験があるので、一緒に受けようと野郎が言うと、外野がわたしの方が「三か月も先輩なのだから受かるに決まっている」という納得できない理屈を言われ、全く関心が無かったのに断れない雰囲気になってしまいました。と、その場では全く関心が無いふりをしたものの、隠れて受けて「ふらっと試験受けたらふらっと合格してたよ。ヘラヘラ〜」みたいなことを言って、今どきの学生の鼻をへし折りたいと思ったものの、こちらのただでさえ低い鼻をへし折られるような気もします。
今どきの政治経済をわたしより詳しく語られ、かなり片手間でやっているらしい中国語ですら、わたしより流暢に話されるとは。。。
いったいわたしは何をやっていたのだろう。2、30年前のロックと映画なら詳しいんだけどねとお節を頬張りながら、恋愛だの恋だのわたしの中では死語となった言葉が出てくる野郎の口元を見ながら思ったのでした。



そういえば、年末にチェン・カイコーの映画、「運命の子」(赵氏孤儿)を見ました。
映画としては、良くも悪くも本当に「ああ、中国娯楽映画だねえ」という感じでした。
どこかに書かれていた、チェン・カイコーの「自分の子を犠牲にできるか」というメッセージも、中国の若い人へ中国文化を伝えたい。という想いも、恐らくこの映画では伝わらないでしょう。
娯楽映画として、面白い面白くないというような文脈でしか語られないような映画でしたが、この中国では有名な京劇である物語と内容を変えてあるというのですが、いったいオリジナルはどういう話なのか、どう終わったのかという点だけが気になりました。
ただ、中国映画の代名詞にもなっている、ワイヤーアクションというのは、逆に映画を安っぽくさせているだけのような気がします。ワイヤーアクションを有名にさせたのは、アン・リー監督とも言われているのですが、荒唐無稽さが前提の映画ならば、爽快感という免罪符もあるのかもしれませんが、リアルな文芸物?を作りたいのであれば、人間の本物の動きだけで作って欲しかったです。
でも、今の张艺谋にしても陈凯歌にしても、映画というビジネスを成立しなければいけないのだろうなあ、とそんなことを考えたりした年末でした。



と、どう読んでもあまり映画を褒めていないみたいですが、決して悪くは無い映画です。
で、この予告編を見ると、なんだか懐かしくなってきました。
テレビで放送したら、もう一度見てみたい。あるいは中国語字幕で見てみたい気がします。



また、スペースが余ったので、作文を載せます。


去年的年底,我读了几本中国小说,看了几部中国电影。
从书和电影中我感到,中国历史上有过好几次重大的变革,每一次都好像彻底改变了中国人的价值观念。
举几个例子,古代有很多次大规模的战,其中好几次使中国发生了重大的变化。
现代经济改革也使中国大众发生了从未有过(前所未有)的巨变。
除此之外,电影导演陈凯歌写的 “文化大革命还没完成。
中国大众一直在朝着某个方向奔腾向前。文化大革命的确是愚蠢的运动,文革的时候前往政治,而现代是前往经济”。
这个句子也给我留下了深刻的印象。
现代的年轻人也认为,西方文明的进入使他们和传统的中国有了“断裂”。
拿食来说,快餐厅成了他们的最爱。
再拿住来说,大家庭变小了。
总之,建立在传统社会秩序上的中国,其基础的部分正在发生很大的改变。
其中的一个原因是网络的普及而引起的年轻人意识的变化。
我感觉,世界人民的价值观念被因特网的发展所统一化了。
于是不适应新环境的事就会被淘汰。
已经决不把所谓“国民气质”只憋在国内了。
现代的中国是否有重视礼貌的国民气质?
现代的日本是否有舍己为公地打仗的国民气质?
毕竟早就把那气质捆扎起来而埋入地下了。
一起说那些关于“国民气质”的中国朋友送给我他的近照。
那照片竟然好像功夫片的明星。
他说“现代中国毕竟是从古代中国延续下来的”。


前にも何度も書いたように、生まれて初めて書いた中国語の作文を、跡形もなく直されたのに、面白いとか格好いいと煽てられたのが、今でも中国語を続けられている理由のひとつただと思います。
そのおだててくれた中国人の老師は、少し前のメル友から今はskype友達となりました。前は熱心にわたしが書く作文についてコメントをしてくれたのですが、次第に現代中国社会の拝金主義批判を聞く会のようになってきました。
上の作文も少ししか赤が入っていないのは、老師の気力が無くなっただけかもしれません。
ただ、外国人の文章だとわかるけど、それでいいんじゃなあい。とか「把那些气质捆扎起来而埋入地下了」は、格好いいと言われたのですが、それは昔、あなたに教わった中国語ですよと口には出せませんでした。中国語を初めて数か月なのに、なぜか補語の「起来」の使い方ばかりを教わりました。また、今でもなぜか老師がよく直す「而」の使い方を意識して真似しているような気がします。
その時の話をして、「也许是老师在银行里把不少钱存起来」と言うと、そういう言い方はしないと言われました。と曖昧な記憶なのですが、存起来は、「集めて貯める」というニュアンスなので、銀行という言葉を使うのなら、「到银行存钱」とかなんだとか。。。で、また起来を使った言い方で、「〜に」とか「〜へ」という表現を入れると、把○○V起来は、使えなくなるとかなんとか。。なんだか一年前とあまり進歩がないねえと、結局いつもの、「とにかくいい中国語をたくさん読め」で終わった中国語3割日本語7割の聊天儿でした。