中国語人が書くような中国語を書く

中国語は発音に始まり発音に終わるとよく言われ、その言葉が呪いのように、意識せざるをえなくなっています。
ただ、こちらは、自分の到達点がはっきりわからないまでも、それなりに自分の問題点や、目標とすべきことなどは、想像しやすいです。
中国人のような発音というのは、近づけるべきであっても、そこへの差があることを正しく意識し、常に自分の発音を見直す意識を持てれば、それでいいのではないかとも思います。
それに対して、最近思うことは、「中国語人のような文章を書く」ことについてこそ、できそうで、永遠に到達できないのではないかと考えるようになりました。
老師にわたしの書いた中国語を修正してもらうと、「文法的には問題がないけれど。。」という説明のあとの修正点は、それがどうして、その表現がいいのかを理解するのは、どれだけ単語や文法を学んでも到達できないのではないかと思わされます。

また、最近は、Lang−8で、作文を見てもらっているのですが、同じようなことを感じさせられます。また、逆に多くの中国の方が書いた日本語を修正していても感じるのは、これが、どうしてこの言葉ではなく、こちらの表現の方がいいのか。という点は日本語の文法だけでは、説明できない箇所の方が多いのではないかと思います。


日本人と変わらない発音で話され、日本文化にも、一般的な日本人よりも詳しい中国の方でも、その書かれた文章をある長さで見ると、やはりどうしても日本人では書かない表現を見つけられます。
実はわたしの会社の社内システムは、オフショアで中国の方が対応しているのですが、電話では、本当に日本人と変わらない発音と専門的な言い回しができる方達も、長い文章を書かれると、やはり日本人の書いた文章ではない。ことを気づかされます。


その間を埋めることについて、一度老師に相談をしたところでは、日本語から中国語の翻訳をしない。自分の中国語作文をしないこと。と言われたことがありました。
中国語で考えて、中国人が書いた文章を引用すること。というような意味の話でした。


それはそうかもしれないけど。。と週末にはなしつつ、老師のレッスンでも使った「漢語初級口語教程」の下冊が一通り終わりました。まだまだわたしは、初級のテキストでレッスンをしたかったのですが、次回からは、「漢語中級口語教程」を使うことになってしまいました。
テキストを開くと、知っている単語より、知らない単語の方が多いじゃないですか!と抗議をするも、なぜか受け容れられませんでした。
とりあえず、老師の仰せのままについていく子羊のようなわたしです。